ひつじライオンの夜明け

ひつじライオンの夜明け

自分と本気で向き合い癒したい。本質を見極める目を養いたい。そんなあなたへ新たな視点をご提案。

許す・許さないという囚われから自由になる

ずっと許せないこと、ありますか?
ずっと許せない人、いますか?

まぁ人生いろいろですから、許せない体験に出くわす人も少なからずいるかもしれません。

管理人トヨも、ありますよ。
頭では手放してるつもりでも、心の深いところでは根に持っていたりしてね。

なにしろ粘着質なのでw

とはいえ、いや粘着質だからこそ、何かの出来事があって「許せん!!」ってなったときは、自分の内側のどこが引っ掛かってるのか、毎回内観して浄化作業をするようにはしています。
感情=自分を知るための材料という認識のため、材料の旬を逃さないためにもすぐ調理に取り掛かりたいタイプ ←)

内観はもはや趣味ww

そうするとあらビックリ。
過去に何度か扱ってきたキツめの体験がまた出てきたりして、「おぉ!私まだ握ってたんか!」となります。

私個人の感覚として、それがトラウマレベルの強烈な体験であるほど、最初のうちは小出しに出てくるんですよね。感情もあんまり感じられないです。

それを根気強く浄化していく作業をやっていくと、忘れた頃にドーンと大きな出来事が起こって、そこで大浄化祭りを促されます。

で、これでもう浄化完了したかなぁ?と思ってたら、今度は似たような出来事が何度か起こって、残ってた細かい部分の小さな浄化を促されるみたいな感じです。

最後の小さな浄化は、お試しの意味もあるかもしれない。本当に囚われから自分を自由にする気があるのか試されてるような??確認作業みたいなやつ。

そのお試しが起こるたびにこれまでとは違う≪真に望む選択≫を繰り返していくと、本当の意味で囚われから自由になっていく・・・だいたいこういう流れの浄化プロセスが用意されているように感じています。

まるで魂主催の矯正プログラムみたいなんですよね、ホントに。
私の場合は「スパルタかっ(# ゚Д゚)」て突っ込みたくなる程度には、スパルタ式プログラムでした。ハードすぎ、荒療治すぎなんじゃーーー・・・遠い目。

まぁいいや。
話を元に戻します。

いつもこんな感じで、内観しながら「許せん!!」という感情と向き合っていくんですが、実は私の場合、

浄化=許す というふうには捉えていません。

許すことを目指して内観作業をやっているのではなく。

内観するときに探しているのはいつも、許す⇔許さないという相反する気持ちを超えたところにある物事の『本質』です。

上でしれっと『囚われ』と書いたんですけど、結局『許す』も『許さない』も、どっちも意識の囚われに変わりはないんですよ。

許そうとすることも苦しみだし、許さないでいることも苦しみ。

どっちも同じ。
ただの相反する二極でしかありません。

このブログでは何度もお伝えしてますけど、相反する二極はどちらも本質ではありません。相対的で常に変化するものに真実はないんです。

なので、どっちにも傾かないように気をつけています。

あ、もちろんエゴちゃん(心/思考/マインド)的には、『許す』を選んで号泣してスッキリしたい欲はあるんですよ。でもそれだと本当の意味での解放にはならないから・・・。

マインドの次元でいろいろ扱ったとしても、結局マインドの枠を超えることは無いと言いますか。感情的に号泣すると気持ちいいし、解放されたーという一時的な快感も得られるんですけどね。

私の場合、二極どちらを選んでも真の解放にはならないことを知識として知ってしまっている以上仕方ない。観念して『許す』も『許さない』も選ばずに、起こった出来事を魂視点(=遠くて高くて長い目)でひたすら観ていく作業を粛々と行うしかないわけですよ( ;∀;) ヒィー

要は、感情は内観の手掛かりとしては使うけど、感情を感じることを目的にはしない!のです。感情はエゴちゃんがその都度ただの反応として創り出してるもので、何かあるたびにあっという間に移り変わります。だから本質的原因じゃないってことが言いたかった、うん。

・・・というわけで。
内観作業で観ていくポイントは

  • 自分の内側のどこが引っ掛かって感情が反応しているのか?
  • 私という存在はこの出来事を通して、自分の何を知りたかったのか?

ここらへんですかね。
自分の内側に深く潜って探していきます。

そうして本当に気づきたかったことに気づければ、『許す』と『許さない』どちらを選ぼうと、実はその選択自体にはあんまり意味がなかったんじゃん!という結論に至ります。

本当に観たかったのはそこじゃなく、この体験を通して自分を知りたかっただけだったのね、ってわかります。

ここまでくると、対立する二極のあいだで揺れ動く葛藤(許す⇔許せない)から本当の意味で解放されて、これまでにないくらい軽~くなって、ラク~になります。

その結果、許せなかった出来事自体への執着が無くなって、その出来事は『ただの出来事』になります。

怨念の種が枯れ果てるわけです(コワクナイヨ)。

もちろん感情は人間の機能として死ぬまでついて回りますから、「許せない!」は湧いてきますよ。でも、そんなに執着することなくスルスルと流すことができるようになります。

すでに気づいている本質に立ち帰って、速やかに自分を再確認して、おわり。

粘着質な私でも、怨念(コワクナイヨ)を持ち続けることができなくなってきますw

こういうことが体験できるから、本質につながるのってめっちゃ面白いんです。

あーこれを世界中の人々の趣味のひとつに加えてほしい☆

『趣味:読書、本質につながること』

とか、履歴書に就活生が当たり前に書く世界線に飛んで行きたい(大真面目)。

ではまたそのうちに~\(^o^)/

変化しかないこの世界で安定を求めて生きるということ

いや~2022年も終わり、2023年がはじまりました。昨年は皆さまにとってどんな一年でしたか?

私トヨは、ひたすら自分と向き合う・・・というか、向き合わざるを得ない出来事が次々とやってきた感じの一年でしたョ。

幼い頃から大事に抱えてきた心の荷物のうち、重すぎて取り扱い方がよくわかっていなかった棚上げ部分の荷物👜を取り出しては確認・仕分けする作業を少しずつ繰り返し、せっせと浄化に取り組んでましたね。おかげ様で結構軽くなったような気がします。

そんな中(昨年は特に母の難病の発覚など外側の環境が大きく変化したこともあり)あらためて実感しましたが、私やっぱり、ものすっごく≪変化≫が苦手みたいです😅

なにしろ超絶不安定な家庭環境に育ったもので、

何も起こらない = 安定 = 幸せ

みたいな価値基準が深く深く心に浸透しているんでしょう、きっと。
刷り込み刷り込みぃ☆

いやわかってる。
わかってるんです。
↓↓↓ ヨーガ哲学の教え、基本の”き”。

本質(魂/真我)以外、万物は全て変化する。

(頭では)わかってるんだけど、こんな変化しかない激動の時代だからこそ、願ってしまう。

若さも健康も立場も環境も収入も、自然災害やウィルス、社会情勢や政治・・・どれもこれも、なーんにも問題なく、安心安全、健やかに安らかで続いていってほしい。

何も起こらない日々の、なんと尊いことよ。
心からそう思います。

でも残念!!!
一切変化しない安定は、外側には存在しません。

私の周囲も例外なく変化し続けていて・・・やはり真の安定は決して外側の世界には見出せないことをあらためて実感しまくった2022年でした。

当然私の心(エゴちゃん)はこの変化に抗いましたけどね。変わらないで~!変わりたくない~!って。

でもそうしたエゴちゃんの徹底抗戦を経た今、しみじみとこう思っております。

変化を受け入れないでいようとすると、めちゃくちゃ苦しい!

なにしろ≪変化≫こそが、私たちが住む三次元(=物質次元)宇宙の宿命であり、ことわりですから。

安定にしがみついて変化を拒絶(=執着)すればするほど、苦しみが増すだけ。本当に、抵抗したって仕方ない。この世界で変化せずに留まり続けることなんて不可能な話なんですよ。

まーそもそも!
そもそも論として、地球自体が全く留まらないというか、すさまじく変化し続けながら進み続けている”存在”なわけです。物理的にね。

ほら、↓この動画。
結構有名な映像かもですけど、太陽系の公転の様子をアニメーション化したものだそうです。

真ん中を猛スピードで爆走する≪かめはめ波≫みたいなオレンジ色のボールが太陽。そして地球はその周りをグルグルしてる小さなボールのうちのどれかなんですけど、もはや早すぎて他と見分けつきません。

こんな猛スピードで太陽と共に宇宙を爆走する地球の上に乗っかって生きてる私たち人間が、変化しないでいられるわけないでしょ・・・。

てか、その前によく振り落とされないよね。
ピューってどっかに飛んでいきそうじゃない?笑
重力とか慣性の法則とか、そこらへんでしょうか・・・知らんけど。

とにかく、変化する宇宙の中の、変化する太陽系内の地球という星に住む人間である以上、変化は必定。地球の地面=動かないってのが、そもそも激しい錯覚なんですよ。

めっちゃ激しく変化してますからね。物理的に。

DA・KA・RA☆
常に変化する宇宙の中で生きる人間をやってる以上、一緒に変化し続けるしかない!というわけです。

変化を頑なに拒み、変わらないでいようとすることも、確かに地球での楽しい遊びではある。だけど苦痛を伴う遊びってことは自覚しておいてもいいかもしれない。

それでもやりたければ、やると決めて思う存分やったらよし!!

私はもうその遊びはやりつくして飽き飽きした感あるから、そろそろ足を洗ってサッパリしたいですっ😭😭😭

・・・内観に励みます(結論)

まぁ結局、人間に与えられた選択は、変化する世界に対して『今、自分はどう在りたいか』なのかなぁとは思います。

この点は選べるところですもんね。

因みに、外側は変化するものですが、ヨガの考えでは

内側=魂/本質
外側=それ以外 なので心も外側に含まれます。

なんとまぁラッキーなことに心は変化可能ということです。

そして人間は元々、内側に繋がることで心をコントロールし、変化させることができる仕様なんですね。神様が抜かりなくそういう風に創ってる模様。

しかも心強いことに心を変えていくことについては、ヨーガ哲学ではいにしえのヨーガ行者さんも「やればできるよ!」って保証してくれてます。

だからできます。
同じ人間だもの。
要はやるかやらないか。
実践あるのみです。

この変化する世界を逆手にとって、自分の心を変化させて自分を苦しみから解放する遊びも、実は結構面白いかもしれない。

リアル一発大逆転人生ゲーム🚩ってやつね。

さーてさてさて・・・
急激にまとめに入りましょうか。

今後世界はますます変化が激しさを増す予感しかありません。

変化する地球に振り落とされないように、

変容力?
適応力?
受容力?

↑↑↑ こんな感じの心の力を積極的に身に着けて、2023年も図太く生き延びてやるしかない・・・そんな覚悟を決めつつ。

そうだ!2023年はむしろ地球を追い越す勢いで大変化してみるのもいいかもです!!!

こ~んな激動の時代だからこそ、むしろ変化を生み出す側になってみるのも地球でできる楽しい遊びのひとつだったりするのかなぁと、今思いました。

2023年もどうぞ、よろしくお願いいたします。
(先日はてなブログで絵文字が使えることを知りました❤️←)

生きづらさの原因となる思い込みを解除する方法(具体例を元に解説)

今回は、生きづらさの原因となっている価値観(信念/思い込み)と、親から与えられた≪毒≫という名の材料を使って、どんな感じで自分と向き合っていけばいいのかを、具体例をひとつ挙げつつ書いていこうと思います。

とはいえ、今世の環境も体験も、そこで形成される価値観も、もともと持ってきている特質も、過去世から持ち越してきている記憶の種も・・・何もかもが各々全く違うので、どう向き合い癒していくのかも、人それぞれ。一概には言えません。

それでもまぁ、同じ人間。
心の働きにはパターンが存在している気はしてるので、ある程度参考にはなると思います。

あくまで管理人トヨの場合はこんな感じ、という雰囲気で捉えて頂けると幸いです。

なお、以下の具体例は前回までの記事を全て読んだ前提で書いているため、まだ読んでない場合、意味不明かもしれません。すみませんが、先に前回までの記事を全て読んでから、またここに戻ってきてください。めちゃ長いですけど。

↓こちらからどうぞ。

自分と向き合う方法(具体例)

早速行きましょう。
嬉し恥ずかし、私、トヨの事例w
さらけ出すから、よく見とけよぉ( ゚Д゚)

周りに迷惑掛けて平気な顔して生きてる人間に対して、ものすごい怒りが湧いてしまう。

これこれ笑
私、自分本位な意識で周りに迷惑掛ける人がとにかく嫌なんです。自分さえよければ周りはどうでもいいっていうタイプね。そういう人に対してめっちゃイライラします。

騒音主とか、自分の仕事を平気で周りに押しつける人とか。並んでいる列に平然と割り込みしてくる人とか。夏、マンションの自分の部屋にゴミを置きたくないからと、共有廊下にゴミ置いとく人とか。

こんな感じの人が私の世界に現れると、なんだか猛烈な怒りが込み上げてきて仕方がないわけです。

わかりやすいので、もう先に言っちゃいますが、私が持ってる価値観(信念/思い込み)としては

『人は(=私は)周りに迷惑を掛けるべきではない』・・・です。

この価値観で自分も周りもガチガチに縛り上げます。あわよくば、その迷惑掛けてる人を、煮えたぎった怒りをぶちまけて自分の理想通りに正そうとしたくなるほど、強烈な感覚があります。

実際、当時勤めていた会社のめちゃ自分本位だった社長を、怒りのままに叱り倒した経験もあります。

あ!かなり若かりし頃ですよ~
今はしません。黒歴史

正義感スゴツヨ、人間魚雷タイプ。
たとえ玉砕しても自分の正義を守りたい。

そんな私。・・・のことが、ホントに自分でもわけわからんし、面倒くさくて大嫌いでしたよ。いつも後悔ばっかりでね。

まぁ、そもそも正義って言っても、それこそ振りかざすほうも”自分本位”で自分勝手なんですよね。人間レベルの正義なんて、あまりにも相対的で移ろいやすく、ホントは在って無いようなものなんですが、そこを理解するまでかなりの時間と痛い経験を要しました。

こんな感じで、制御が困難に感じるほどの強烈な怒りが湧いてきてしまうので、もういっそ、明治維新辺りにおとことして生まれてりゃ、華々しく命を燃やして潔く散れたんじゃないか・・・生まれる時代間違っちゃったんじゃないか??と真剣に悩んだりもしました。

・・・ここら辺の発想は私らしくて面白いな、とは思いますが笑

生きづらさの原因となる価値観

何が一番厄介かって、この価値観を持っている限り、ずっと何かしら誰かに怒っていなきゃならないことなんです。

インド哲学では現代は『カリ・ユガ』の時代と云われています。

【カリ・ユガ】
人間の文明によって人々が神から遠ざけられ、霊的な堕落を引き起こしている暗黒時代と呼ばれている。人心は荒廃し、貧困・憎悪・狂気・悪疫等あらゆる害悪が蔓延する時代。

もう、世界は自分本位な人ばっかりよ。私も含めて。

こんな暗黒時代の、あらゆる意識段階の人間がいる世界の中で、粗塩でゴシゴシ塩揉みされてごらんなさいよ。痛すぎて怒りしか湧かん。

この価値観、間違いなく私の生きづらさの原因ベスト10に入ってるやつ。

そりゃー生きるの、めっちゃ苦しいわ。

怒りの感覚をたどって内側に潜る

このケースの場合、まずグイグイ主張してくるのは『怒り』です。とにかく許せないわけです。なので、実際に自分と向き合うときは、まずはこの怒りの感覚を頼りにして、深く自分の内面に潜っていくことになります。

内観の時間の始まりです。
怒りを、排除もジャッジもせずに、ただ静かにたどっていきます。

≪たどっていく≫というのが結構私個人の感覚的なものなので、正直、言葉での説明が難しいと感じるところなんですが、めっちゃ集中しつつ、怒りの感覚を、『怒り』という名称のラベルを一旦外してただの『何かの感覚』に戻したうえで、「あーこういう感覚なのね」と確認しながら、少しずつ意識の深いところに潜っていくような、そんな感じです。

あ、それと、潜っていくときは、『この感覚の奥には何があるだろう?』『私は何を感じたいんだろう?』という思いを持ちながら、深いところへ潜っていくような感じもあります。

この作業を続けていると、怒りとは違う、別の感覚が感じられてきます。

『怒りは二次感情』ってよく言われますが、本当にその通り。怒りで覆われていたその奥に、別の感覚がちゃんと隠れてます。実際にやってみたらわかります。

私のこのケースの場合は、底知れぬ悲しみ
あとは無力感と、「いい加減にしてよ・・・」と絞り出すような感覚が湧いてきました。

これらの感覚を発見した瞬間、怒りは静かに消えます。

ここが私が面白いなぁと毎回感心するところなんですけど、怒りの感情って、内側の深部への道案内役みたいな役割なんですよね。だから、自分の役目を終えて次の感覚に引き継ぐと、さっさといなくなるという・・・。実によくできてる仕組みだなぁと思います。

そうして発見した感覚を、『悲しみ』『無力感』などの名称のラベルを一旦貼らずに、しばらく「あー私、こういう感覚を感じてたんだ・・・」とじっくり確認しながら感じていきます。

この作業だけでも、人によっては、また、価値観の内容次第では、かなり癒されたと感じるはずです。

感情を感じるときの注意点(大事なこと)

注意点としては、その感情・感覚に引きずられすぎないこと、です。

大泣きしてスッキリして終了!!!となってしまうと、ただその瞬間湧きあがった感情に飲み込まれてるだけなんで、確かに感覚は喜ぶし、涙を流してスッキリはしますけど、実は本当の意味での自己理解にはならないんですよ。

本当に浄化するためには、その感覚を持った理由を知って、自分を理解し、流れを理解し、世界を理解し、二極を超えたところの視点から認知を修正したうえで、真実を受け入れる必要があります。

なのでこの作業の続きを行うためには、どちらかというと、『客観的に観ながらじっくり調べて確認する』というスタンスでいるほうがいいように思います。

・・・実は私、インナーチャイルドセラピストの資格を持っていて、昔は、深いところにある感覚を発見したら、その感情にどっぷり浸ってワーッと泣いて「本当はそう思ってたんだねー」とインナーチャイルドの気持ちを理解して受け入れ、スッキリして終わるというやり方をやっていた時期がありました。

でも、このやり方では、人生の生き癖パターンから抜け出せなかったです。

自分の気持ちをわかったつもりになってるけど、肝心の認知の仕方が全然変わってないため、同じような出来事が来たら、また同じ認知・行動パターンを繰り返してました。

当時はその理由がわからなかったですけど、今はわかります。インド哲学の人間の構造に関する智識で、そこらへんの仕組みは明確に説明できます。

長くなるんで、今回はしませんけど。

(あ、抜け出せなかったのは、私が勉強不足で向き合い方が下手くそだったからですよ!素晴らしいインナーチャイルドセラピストさんもいらっしゃいますので誤解なさらぬよう・・・)

まぁとにかく、内観中は感情・感覚に引きずられずに、自分が自分の専属セラピストになって寄り添う感じで、愛と軸をしっかり持って、客観的に向き合うことをオススメします。

沸き起こる感情に酔っぱらって気持ちよくなるだけじゃあ、せっかくの内観がもったいないです。

その感情・感覚を持った理由を探ってみる

内観作業の続きです。
ここからは記憶に触れていきます。

先に申し上げておくと、記憶は無理にこじ開けるものではありません。何も出てこないなら、今それを扱う時ではないと理解して、そっとしておいてあげましょう。

特に、激しくトラウマ化した記憶の場合は、かなり慎重に取り扱う必要があります。そういうものを持っている人は、熟達した心の専門家を頼ってくださいね。自分ひとりで触ろうとしないようにしてください。

~~~~~~~

それを踏まえて、以下のケースは、個人で取り扱える範囲の記憶の浄化作業です。

では参ります。

底知れぬ悲しみと、無力感と、「いい加減にしてよ・・・」と絞り出すような感覚をしばらくじっくり感じたら、次は、この感覚が、これまでの体験のどこに紐づいているかを観ていきます。

今生の体験・・・できたら”今生の最初の体験(=フラグが立った体験)”を探ります。

過去世を観てもいいんですけど、浄化に必要な体験は全て、今世で体験するはずなので、調べるのは今世だけで十分だと思われます。

どの地点の記憶であれ、必要があれば、自ずと出てきますから。

≪出てくる≫というのが、これまた私個人の感覚的なものなので、どう表現すればいいか難しいところなんですけど、内側に意識を向けつつ、上記の感覚を感じつつ、『この感覚って、どこから来てるんだろう?』『どこが始まりなんだろう?』と、自分に聞いて、静かに答えが返ってくるのを待つ感じです。

頭で考えるんじゃなくて、その感覚に意識を集中させて、感覚の根っこにあるものが浮き上がってくるのを、待つ、待つ、待つ・・・・。

静かな時間です。

何も出てこなくてもいい

出てこなければ、ここで終わり。
上で書きましたが、無理やりこじ開けないで、ただ、出てこなかったということを受け入れておきます。

それでOK。十分です。
『今は心がちゃんと自分を守ってくれてるんだなぁ』と、思っていてください。

実は、自分との向き合いを実践したこと自体に、ものすごく意味があります。その時間は意識を内側に全集中させていた訳ですから、魂にとっては大きな歓びです。

過去記事ですでに書きましたが、自分を知るために内側を探索することは、魂の本質的な願いに沿った行為なんですよ。

それに自分を大切にする時間を集中して過ごせたって、すごいことでしょ?この時間をコツコツ積み重ねることが内面に及ぼす効果は計り知れません。

なので、これでいいんです。
機会があるたびに、内観作業を地道に続けてみてください。
機が熟したとき、自ずと扉は開かれると思います。

記憶がフワッと浮き上がってくる

私の場合は、出てきました。

・・・そう、が。

上で、『”今生の最初の体験(=フラグが立った体験)”を探る』と書きましたが、私のこのケースの場合は、父という存在そのものがドーンとイメージとして浮かんできた感じです。

そういえば父、周囲にめっちゃ迷惑掛けてた人だったわ!
・・・と思い出す。
(※↑↑↑ここでようやく、親の≪毒(=向き合いの材料)≫の受け取りタイムの到来)

確かに私、父の娘として生まれたことで、日本人の子どもとしては比較的ハードモードっぽい体験をいっぱいしました。

たとえば、
父が見栄張って、返済能力無いのに他人の連帯保証人になり、案の定逃げられて、なんかしらんけど暴走族みたいなのに家の周りを取り囲まれて煽られたり。
(夜、暴走族バイクのライトで照らされた赤やら青の明かりが台所の窓から差し込んできて、音もブオンブオンってすごくて怖かった。小学低学年の頃。今でも忘れられない思い出。)

その後しばらくして、突然スーツ着た知らないおじさんたちが家に上がり込んできて、赤い紙をバーッと家中の家具に貼って回って、家財道具差し押さえられたり。
(債権者に訴えられて物件差し押さえられたんだろうな・・・母と2人で呆然とその様子を眺めてた記憶。)

他には馬に乗った巨大な戦士の銅像や、何に使うかわからん機械などの産業廃棄物を自宅にトラックいっぱい持ち帰って、家や前の道がゴミだらけになってしまったり。
(誰かに家を知られるのが常に恥ずかしかったし、父は家族のことなんて何にも考えてないんだな、と悲しくなった)

初めから守れるわけない期限で約束しては、自営の取引先に多大なる迷惑を掛けるのはもはや日常茶飯事だったな。いつも請求、取り立て、催促の電話が鳴ってた。
(両親がいつも居留守を使うため、子どもの私が代わりに「今いません」と嘘をついて対応してた)

挙句の果てには、自営が借金で首が回らなくなり、本人なりに何とかしようとして、騙されてわけわからん詐欺案件の片棒を担がされたこともあった。私が異変に気づいて親戚の叔父さんに相談し、警察にも相談し、本人は詐欺だと無自覚だったしはじめてのことということで無罪放免されたけど、あれは最悪だった。詐欺だって言ってんのに、「余計なことしやがって」って逆切れしてきたからね。

その後は当然ながら破産に至り、一家で夜逃げ。後始末は全て連帯保証人になってもらってたその親戚の叔父さんに丸投げして、緊急避難する仮住まいまで用意してもらったのに、これも「余計なことしやがって」って、逆切れしてたな。

他にも出てくる出てくる。
年端もいかない子ども時代からの記憶いっぱいに溢れ出す、ハード寄りな体験がわんさか。

約束は守らない。借りたものは返さない。
ヤの人とトラブルになったこともあった。

そんなことある!?っていうような、あんな体験、こんな体験。るるるる~

「人に迷惑ばっかり掛けて、この人なんで生きてられんの??もう、娘の私のほうが恥ずかしいやら罪悪感やらで押しつぶされそう。いっそ、消えてしまいたい・・・」

私、そんなこと思いながら、何もできずにただ彼に人生を引きずり回される感覚で、父を憎み蔑みながら、不安しかない日々を生きてました・・・・。

底知れぬ悲しみ。
無力感。
「いい加減にしてよ・・・」と絞り出すような感覚。

・・・はいこれ、どう考えても、ビンゴですわ。

分析しますよ

さて、これで価値観の出どころが判明しました。

次にやるのは、自分や周りのことなどを客観的に観て、事実と思い込みとを仕分けしつつ、思い込みを解除していく作業です。

意識を変容させていくためには、ここが一番重要。

(この作業は本来は内観の意識のまま、静かにゆっくり多角的に熟考していくんですが、いつもの超長文病がすでに暴走状態なので、要点だけ箇条書きにして書きます。)

まずは私自身について

【内観を通して気づいた発見】

  1. 父の人生の煽りを受けただけなのに、なぜか私自身が居心地の悪さや引け目、恥や、罪悪感を感じていた
  2. 周りに迷惑を掛けていたのは父であって、私ではなかった
  3. 無力感を感じていたが、意外と当時の自分にできる最善を生きていた(親戚のおじさんに相談するなど)

こんな感じの認知の偏りがあったことに気づきました。

思い込みを解除しますよ

これらの思い込みを解除するには、内観の中で「それって本当にそうなの?」と、自分に問いかけていきながら、事実とそれ以外とを明確にしていきます。

まず簡単なところからいうと、3の無力感については、≪自分は無力だと感じている≫だけであって、事実とはかけ離れているケースも多々あるわけです。

なので、『本当に私は無力なのか?』と自分の深いところに問いかけて、よーく考えてみると、事実はそうではないということに気づいたりします。

幼少期に形成された価値観・思い込みって、基本的に根拠がないことが多いので。

私の場合、幼いころから父の人生に巻き込まれ過ぎたため、『私には状況を打開する力がなく、無力な存在だ』と思い込んでいたみたいですけど、内観の中で静かに自分を振り返ってみると、父の詐欺案件片足突っ込み時(当時私20歳頃)には、必死に六法全書を開いて詐欺だと見抜き、すぐ叔父さんに電話で助けを求めてたわけですよ。

決して無力ではなく、当時の私としては最善の働き。むしろギリギリのところで、家族を守るために底力を発揮していたのでは?という観方に変わりました。

それにこれだけ環境が不安定で危機的状況の連続だったのに、非行にも走らず自暴自棄にもならず命を絶つこともなく辛酸舐めつつも生きてこられたということは、自分が思ってる以上に強かったんだろうな・・・とね。こうして生き延びてるだけで、もうなんか、私すごくない??とあらためて実感したわけです。

『あれ、どうやら私は無力ではないみたい』

既存の価値観とは違う、↑↑↑こんな感じの感覚が自然に湧き上がってきたら、認知が修正されたということです。

新しい視点を1GET。

歪んだ価値観が最後に行き着く、自己存在の否定

続いて1、2の思い込みです。

思い込みの1、2から観えてくること。
皆さん気づきました?

これ、私、

自分は迷惑な存在だ

という錯覚に陥ってしまっているんです。

一連の体験での、私にとっての事実は、
『父の荒ぶる人生の煽りを受けた』ですよね。

私自身はそんなに重大な迷惑を周りに掛けたわけではありません。
子どもだったし。いわゆる”いい子”だったし。

それなのになぜか私、『迷惑掛けて、しかも感謝するどころか逆切れして、なんて恥ずかしい人なんだ。申し訳なさすぎて、いっそ私のほうが消えてしまいたい』と、父を責める気持ちが、途中から自分へと向いてるんですよ。

『申し訳なさすぎて、いっそ私のほうが消えてしまいたい』と、罪悪感を使って自己存在を世界から滅そうとしてる。

完全に父の所業を無意識に自分のものとして、自分の人生に引き入れてしまってます。

父の娘である”私”という存在も、周りからすると十分に迷惑な存在に違いないと、無意識で決めつけてしまっていたわけです。

そういう思いが心の奥深くにあったからこそ、「私は迷惑な存在なんだから、絶対人に迷惑を掛けちゃダメなんだ!!!」と強く強く自分を戒め、自分を『人は(=私は)周りに迷惑を掛けるべきではない』という価値観でガチガチに縛りつけてきたんですよね。

自分が迷惑な存在という前提ありきの、この価値観でした。

しかも、自分を迷惑な存在だと否定し続けることで、この価値観を絶対的なものとして強化し、絶対その枠から出ないようにして自分を守るという、めっちゃ捻くれたやり方。

そして、だからこそ、周りを気にする様子もなく、自由に?迷惑行為をする人に対して強烈な怒りが湧いてたんだなーと。

「私は人に迷惑掛けないように、こんなにも神経すり減らして生きてんのに、どーしてあんたは人に迷惑かけておいて、そんなに平然としてられるわけ!?」

・・・と、自分自身には到底許可できない≪迷惑掛けて生きる≫を簡単に己に許しちゃってる人が、許せない。そんな理屈。

それともうひとつは、迷惑行為する人が現れるたびに、”消してしまいたい”ほど自分は迷惑な存在だということを無意識で思い出しちゃうってのもあるかも。

自己存在が揺るがされるような感覚ってのは、無意識のエゴちゃんからすると命の危機なんですよ。実際私、「消えてしまいたい」とか思っちゃってるから。

だからそんな思いを抱かなくて済むよう、全力で怒りを放出して周りを責めることで、感じたくない感覚から逃げていたんですよね。

要はやっぱり、自分の心を守っていたといえるでしょう。

つまり結局は全部、自己都合だったんだな・・・と気づきました。

正義ぶってたのは、自己都合ってのを自覚しないで済むために、最も都合がいいから。

自分を守りたかった。
もうあの頃のような苦しい思い、しないで済むように。

願いはただ、それだけだったんですよね。

私は本当に迷惑な存在なのか?

次は、無力感の時と同じように、「それって本当にそうなの?」と自分に深く問いかけて、思い込みを解除します。

すると、やっぱり、どう考えても事実じゃないわけです笑

逆に『自分が迷惑な存在だ』という根拠を探してみたけど、具体的に出てこない。

そりゃそうでしょーよ。
私は父とは、肉体次元では内的特質も纏ってる人格も違うし、今生の課題も学びの段階も違う存在なんだから。

ここで父に埋没して同一化してしまっていた意識を、グイッと父から引き剥がす、と。

父の所業の結果を無意識に引き受けようとしていたことにも気づいてしまえば、「なんで私が引き受けなきゃならんのだ」と目が覚めます。

父のカルマは、彼自身がいずれ清算するので、放置でOK。

他はなんかある?
自分を世界から消すほどの理由、私にある??
いや、特に無いわ。

『やっぱり私、迷惑な存在じゃなさそう』

そう自然に思えたら、思い込み解除完了です。

新しい視点、もうひとつGET。

他にもこんな発見があったよ

【周囲の環境についての発見】

  • 当時はつらすぎて、神なんていない!世界は敵だ!と思いがちな人生だったけど、実はなんだかんだで要所要所、周囲からきちんと助けが入っていたっぽい

→ 親から守られた実感は当時あんまり無かったけど、もっと大きな流れの中で、大きな何かに、私、守られていたのかもしれないなぁと、なんとな~く感じました。今、ちゃんと生きてるのがその証。でも助けが入るのはいつもギリギリ、瀬戸際なんだよな・・・厳しいw

 

【価値観についての発見】

  • 環境に対する人生の選択(順応 or 服従 or 反発)がある中で、父を反面教師とする”反発”の道を自ら選び取った結果が、この価値観だった
  • この価値観自体は過剰すぎると厄介だが、現実的な社会生活を調和的に送るうえでは役立っている面もあるかも

→ 父を見て育ち、「私も周りに迷惑掛けていいんだ~」と順応的な選択をしなかった自分は、今考えると、なかなか気骨のある意識の持ち主だったかもしれません。その結果苦しい思いもすることになりましたけど、結果的にはそれほど悪くはない選択だったような気がしました。だってやっぱり私は、騒音主にはなりたくないし、人に自分の仕事を平然と押しつけるような人間ではいたくないから。

二極を超えたところから、あらためて

ここからが、魂次元の観方のお話です。
相反する二極を超えて、良いでも悪いでもなく、迷惑でも迷惑じゃないでもない、体験の本質を観ていきます。

前回の記事で書きましたけど、一番押さえるべきところは、『私(魂)はこの体験を通して、自分の何を知りたいんだろう?』です。混乱したら必ずここに立ち返ります。

なぜならこれが魂の”初心”だから、です。

魂が世界を体験する目的は、≪私とは何か≫を知るためです。自己存在を知りたいんです。そのために全ては在ります。世界は全て、あなたのために。

なので、初心忘れるべからずで、いきましょう。

自分の何を知りたいの?

はいでは、父の娘として生まれ、一連の体験を通して、私は自分の何を知りたいんでしょうか?内観作業の続きです。

上述したように、静かに自分の内側に静かに聞いていきます。答えが自ずと浮かんでくるのを、待ちます・・・・・。

『必要な体験』
『人間の苦しみの原因となる愚かさを総ざらい』
『今の流れへと向かうため』

ざっくり、そんな感じの感覚が浮かんできました。

ですか~・・・。
だよね、わかってたわ。

父がくれた、自分を知るための材料

内観中、これまでの体験を振り返り実感したことは、私は父を通して、≪人間≫の生々しさをとことん観たんだなってことでした。

人に騙され、利用され。
視野が狭くなり、自分がわからなくなり。
利己的で、自分勝手で、周りのせいにして。
苦しみの中でもがきながら、同じように苦しむ私に対して「人生は苦しいもんだ。苦しめ!もっと苦しめ!」って開き直って言い放ち。
救われたいって思ってるのに、自分をみつめようともせず、同じ過ちを繰り返す。

そんな父。

それでも私は、彼が彼なりの最善を生きようとしていたことを、どこかでわかってました。本当に一生懸命、命を削って生きてた。それだけは言える。そばで見てきたから。

ただ、知らないだけなんですよね。自分のことも、本当の幸せも、どう生きるべきかも、なぜ生きるのかも、全く何も知らない。だから迷い、苦しむ。

”人間”なるものの凝縮版。
それが私にとっての父でした。

そしてそんな父を通して、私自身も≪人間≫を凝縮体験したように思います。親を否定し、自分を否定し、自分が全くわからなくなり、人間不信になり、世界は敵だと思うようになり、苦しみの中で生きる希望を見いだせなくなりました。

幸せは遠いところにあって、どうやっても手に入らないものだと思うようになりました。父と同じように。

まさに私も、”人間”なるものを濃く深く、生々しく体験したように思います。

でも私は、きっとそれを体験したかった。
真の自分を忘れ去り、この世界に意識をどっぷりと埋没させて、迷い苦しみを味わい尽くしたかった。

この人生の出発点が苦しみだったからこそ、私は「ここから抜け出したい!!」と心底思えたような気がします。

私はどうして生まれてきたの?
私はどうして生きなきゃいけないの?
私は何のために存在してるの?

・・・私って何なの?

魂の目的そのものである、存在に対するこの問いかけを子どもの頃から持てたのは、全て父が私に与えてくれた体験のおかげです。

そして現在は、この問いの本質的意味を、自分なりに理解しつつある段階。

この流れに入ることそのものが、父という存在無しにはあり得なかったことです。だって今、過去の体験が無ければよかったって、全く思えないですもん。ホントに全部、欠かせない出来事だったって、今はわかる。

私が知りたかったこと

ではあらためて、
・・・この体験を通して、自分の何を知りたかったか?

おそらく私は『≪私とは何か≫その答えを求める存在(=魂)なんだ』ということを知りたかったんじゃないかな。

私って何だろう?

私はこの問いへ、父を通して引きずられるように、導かれました。

『本当の自分が全くわからない』という暗闇に放り込まれなければ、本当の自分を知りたいという願いは絶対に生まれなかったと思うんです。

願いが生まれたからこそ、自分を知るための試行錯誤が始まったわけですから。

だから私にとって父は、彼の人生を溢れ出すほどの苦しみで満たしてまでして、私を”今の私”へと導いた、そんな存在です。

こうなってくると、父を迷惑ばっかりの許しがたい存在とは評しがたく・・・。

もはやその迷惑行為だって、今となっては私が自分を知るための内観の材料になってしまっているわけで・・・。

もう、どう考えても、父の存在自体が≪愛≫そのものとしか思えない。

そういう感覚に至ってしまいました。

古い価値観に対する日々の向き合い作業が今、はじまる

さてさて。
内観作業が終わり、認知を修正したとしても、終わりじゃないですよ。
古い価値観への引き戻し、揺り返しが起こってきます。

そりゃー≪心≫という、常に外側に引きずられ揺さぶられる機能を標準装備している私たちですから!当然です。

変化を嫌うエゴちゃんは、心を守るためにルーチンワークを断固変える気はないわけで、相変わらず怒りを創り出しては「あいつをメッタメタにやっつけちゃえぇ」と煽り立ててきます。

でも、そんな自分に失望することはないですよ。
そもそも人間って、そういう機能・構造なんです。
(ココはインド哲学の考え)

いくら認知が変わったって自我意識は健在です。しかもカリ・ユガの世界観は相変わらず。周りはみんな、自分を見失ってる人ばっかり。そんな中で生きてれば、塩揉みくらいされますって。

じゃ、どうしたらいいか?といいますと、そうなるたびに、内観作業を思い出して、自分で自分を再教育していくんです。

私の場合だと、たとえば隣人が迷惑行為をしてきたとして、イラァ・・・となったとして、その時ふと、「あ、そういえば、この怒りって、自分を守るために創ってたヤツだったわ」と気づきます。

この気づきこそが内観の成果です。

で、

本当に私って迷惑な存在だったかい?
本当に私には何の力も無いのかい?

と自分の心の奥深いところに、やさしく聞いてあげます。
(専属セラピストモード発動)

すると、ちゃんと認知が修正された答えが内側から感覚として返ってきますから。

すかさずその感覚を拾い上げて、

「そう、ちがったね。私は迷惑な存在じゃなかったんだった。それに何かあったら自分で対処できるんだった。めちゃ賢いし、自分が思ってるより強いから。大丈夫。」

ついでに自画自賛もやっとく。
自己肯定レンガを新たに積み上げて、脆かった自己存在の土台を自分の力で再構築する、心の土木建築作業。

ここらへんは、インナーチャイルドの取り扱いと同じですね。

魂次元まで視点を引き上げて調理完了

で、ここから視点を引き上げて魂次元の観方をしていきます。

「あ、そういえば、お父さんって迷惑行為を通して私に体験を与えてくれた≪愛≫の存在だったわ」と、内観で感じた感覚を思い出します。

じゃあもしかして隣の人も、私の心の再教育及び土木建築作業を滞りなく遂行していくために、わざわざ一肌脱いで体験させてくれてる?そういうこと???

と、自分に聞いてみます。
(父親に対する新しい視点を、取り巻く世界に対して適用してます)

すると、モヤァ・・・と、受け入れがたい感覚が湧いてくることもあれば(笑)、調子が良ければ感謝の気持ちが湧いてくることもあります。

どちらにせよ、二極を超えたところに体験の本質があることを健在意識上でしっかり認識して、この体験(材料)を使った調理は完了。もはや隣人にこれ以上の用はないので、出来事はスルーでOK。

今回も自分の内面と向き合えて、「また少し浄化されたねぇ、よかったねぇ」と、喜んでおきましょう。

自分に対して誠実に向き合うことが大切

内観も、向き合い作業も、完璧にやろうと思う必要はありません。

というか、完璧って何ぞや?という話です。

私たちは人間次元でどうあろうと、魂次元では常に最高最善を生きてます。だから、自分に対して誠実に向き合ったなら、それこそがその瞬間の最高最善なんだと、自分と人生の大いなる流れを信じて一歩ずつ進んでいけばいいんじゃないでしょうか。

魂の目的(=自分を知る)に沿った生き方をしていれば矛盾なんて生じませんから、大丈夫ですよ。

終わりに

はい、これにて毒親シリーズは一旦(?)完了となります。

この記事の文字数は約13000字。全て読んだら30分位か??

いや~・・・とんでもないモンスター記事を生み出してしまった気がします。この地点まで読み切った猛者いたらホントすごいわ。

全て書き上げた後、あまりにも長すぎることに気づいたので、いっそ3分割でUPしたろーかと考えましたが、自分と向き合うにあたっての流れを断ち切りたくなかったので、まー仕方ないですよ(開き直り)。

自己満足で書いてますから、これでいいのだ。

さて。
このシリーズの着地点である”自分との向き合い”を≪毒親≫ネタからスタートした理由は、親という存在が自己存在の最重要基盤だからです。今生で着手予定の魂の課題は、概ね親との関係を活用して、幼少期に体験するように仕組まれています。

なので、親との課題を浄化していくことで、かなり自分自身が軽くなったと感じられると思います。

でも実は私自身は、記事の取っ掛かりは何でもよかったんです。それに迷いもしました。毒親概念に執着してたり、ビジネスにしている人にとっては結構刺激的なことも書かなきゃいけなくなっちゃうからね。

だけど、そこはやはり、≪毒親≫という皆さんにとって馴染み深い言葉から入ったほうが私も書きやすいし読む側も理解しやすいかなと思って、そうさせてもらいました。

結果、めまいがするほどの超長文シリーズになりました。

ではまた~

親から与えられた影響を材料にして魂の課題を知り、真の自分を知る

先月末、職場のみんなコロナになったのに、私だけ無事でした。強靭な免疫力を持つ予感が止まらなかった管理人トヨでございます。

でもその後、帰省してきた甥っ子ちゃん(0歳)のウィルス性気管支炎を、家族で私だけが貰い受けてひどい目にあったので、強靭な免疫力を持つという自己像は束の間の夢となり、人生の儚さをあらためて知ることとなりました。

現在もまだ、鼻・喉の辺りが大変けしからん感じです。

さて、今回のお話は、魂視点の観方について「そういう観方もあるのかも・・・」と、一旦足(心)を止めてくださった方に向けて書いてみようと思います。今後のご自身との向き合いに、なにかしら参考にして頂けると幸いです。

あ、毎回しつこいですけど、以下はすべて、前回記事を読まないと意味不明なので、先にそっちを読んでから、ここに戻ってきてください。

↓こちらからどうぞ。

使えるもんは便利に使うべし

さて、前回は親子関係を魂の視点から観てみましたね。

魂次元から観ると、親の”毒”が、全く違う観え方になりますよ、という話でした。愛・憎という正反対の二極的な縛りから意識をぐいっと引き上げて、『魂の真の目的』という観点から親子関係の意味を捉え直してみれば、親という存在の役割が、自ずと観えてきます。

とはいえ、≪魂≫という、あるかどうかさえよくわからないものに抵抗感を覚える人もいると思います。ごもっとも。

まぁ、この点については、ちょっと乱暴な言い方をしますけど、私は個人的に、魂とか神様とか輪廻転生とか、こういう掴みどころのないぼんやりした概念は、便利に使っちゃえばいいと思ってるタイプです。

やっぱりねぇ・・・物質次元のガチガチした世界観に囚われた人間の意識を、同じ物質次元の概念だけを使ってグイッと引き上げるのは、難易度高すぎなんですよね。無理ゲーってやつです。

だって、執着でガチガチになってしまった心を使って、執着心を解き放つこと、できると思います??

これ、めちゃ難しいですよ。

執着心いっぱい、一切心の余裕が無い人に、自分を冷静に観察せよ!なんて、日ごろから客観視の訓練をガッツリやってない限り、なかなかできるもんじゃありません。
ていうか、無理でしょ。無理ゲーでしょ。

気づかなきゃ、人生は変わらない

私たち≪ひつじライオン(=自分をひつじだと思い込んでいるライオン)≫が意識を制限している柵から脱出するためには

  1. 自分が柵に囚われていることに気づき
  2. 柵の外にも”世界”が広がっていることを知り
  3. どうして自分はこの柵を飛び越えられないんだろう?どうやったらこの柵を飛び越えられるんだろう?って悩み始め
  4. 自分と柵を客観的に観て、囚われの本当の原因に気づく
    ・・・・・・・・・
    ・・・・・・・・・
    ・・・・・・・・・

・・・こんな感じのプロセスが必要になります。

なのでそもそも論として、柵があることに全く意識が向かなければ、まさか自分が柵によって囚われていることになんて、気づくことさえありません。

現に人間って、ほぼそんな感じです。
みんな≪ひつじライオン≫です。

気づきを得ていかなければ自分や人生は変わりません。気づかなければ、同じところを延々とグルグルしちゃうだけです。

つまり、本気で自分を変えたい!人生を変えたい!って願うなら、『自分や物事を客観的に眺める視点』『既存のものの捉え方とは全く異なる別の捉え方』がどうしても必要なんです。

その視点を持つための手段のひとつとして、魂とか神様とか宇宙などの、より精妙で高くて広い視点を取り入れてみると、グッと意識化範囲が拡張します。

大きな視点を意識することで、より高いところから自分を冷静に眺めることができるようになるので、自分と向き合いやすくなります。

てなわけで、特に目に見えない概念に対して嫌悪感を持ってるとかじゃなければ、心の制限を解き放つのに、とっても便利なんじゃないかなぁと思ってます。

何がいいって、特定の宗教とかに入らなくても手軽に取り入れられるところ。

まぁ、私の場合は家系的なもの、プラス、この世界に持ってきた特質のおかげで昔からやけに感覚が鋭かったので、目に見えない世界のアレコレに対して普通に受け入れてきたってのもあるし、ヨガを学び始めてからは、聖典中に当然のごとく出てくるんで、もはや意識に深く浸透しちゃって、何の違和感も無くなってしまってますけどね。

と、いうわけで、『魂から観た自分』という視点を、便利に使えるようになっていくと、今後かなり客観視がしやすくなると思います。オススメ。

親子関係を活用してカルマを浄化する

本題です。
前回、『親の存在自体が愛』に思えるよって、書きました。

彼らは、自らの人生を賭して、”毒”を持ったまま、私たちの気づきのために現れてくれている奉仕の存在だ、と。

そう。
親が、そういう存在だとするならば!ですよ。
私は同時に、こんな風にも思っちゃうんですよね。

『だったらこちらは、彼らが見せてくれているその≪毒≫を最大限活用しなきゃ、もったいないやん!!』と。

だってせっかく、くれるんだからさ、毒。
使ったほうがよくないかい??

ここでも、使えるもんは便利に使うべし、の心です。

彼らが差し出す≪毒≫・・・つまり、「与えられた影響」という材料を活用して、自分が過去世から積み重ね、今生まで持ち越してきている魂の課題に気づき、向き合い、浄化していく作業に取り組むこと。

これが、私たちにできることです。

魂視点では、ここまでやって、ようやく肉体的な親子関係は報われ、カルマは昇華されます。もはや、そのために親子になったと言ってもいいくらい。

二極次元を超えたところの親子関係の本質はここにあります。

もちろん魂的には、愛憎コネコネして苦悩しつつ『カワイソウナ ワタシ』を味わい尽くすのも、楽しい遊びではあるんですよ。なので、飽き飽きするまで、やればいいと思うんです。

そして、「もう十分!!!」と心底思えたなら。

その時こそ、親子関係への観方を「愛してくれない・・・」「認めてくれない・・・」という『愛憎の視点』から、「私(=魂)はこの親から、自分の≪何≫を知りたいんだろう・・・」という『気づきの視点』にシフトチェンジするんです。

この視点の切り替えができてこそ、二極の苦しみの世界という柵から抜け出すための第一歩を経験した、ということです。

いやぁ、めでたい!
新しい自分への輝かしい第一歩、おめでとうございます。

本当の意味で、親がお役目終了するとき

実は、「気づきを得よう!」と、本気で意識を切り替えた時点で、親という存在自体には、あまり意味はありません。

≪親の毒≫イコール≪気づきの材料≫なんだと気づいて材料を受け取ったら、そこで親の役目は終了。料理するのは私たち自身の仕事です。

親は関係ない。

そもそも親が子どものカルマを浄化することなんて不可能でしょ。それは完全なる越権行為。うっかり台所に立ち入らせたら混乱するだけなので、招き入れるのはやめておいたほうがいいと思います。

たとえ『親は関係ない』という言葉にムカァッ!!となったとしても。

自分で出来ます。
魂が、それをやりたいんだから。
やるために生まれてきたんだから。

これが本当の自立への道ね。
勇気出してこ。

私とは何?

「私(=魂)はこの親から、自分の≪何≫を知りたいんだろう・・・」と、上で書きました。

そう、魂は、自分を知りたいんです。

つまりこの世界のすべての体験と気づきは、究極的には『私とは何?』というただ一点に集約されていきます。

因みにインド哲学では、なぜ人間に、煩悩の原因となる”自我意識”という厄介な機能が付与されているかというと、この『私とは何?』の答えにたどり着くために必要だからだと云われています。

悟りに至る最終段階で、それまで悟りの邪魔ばかりしていた自我意識が、最後の最後、浄化によってものすごく純粋な状態となり、理智の最高の働き(識別の力)も合わさって『私とは〇〇だ』という究極的な気づきにたどり着いたとき、解脱に至るんだそうです。

人間は自我意識があるために「私の・・・」という所有欲が生まれ、所有欲があるから執着が生まれ、執着が苦しみを生むわけですが、それでも最終的に人間を悟りに導くのもまた、自我意識の機能であるという・・・。壮大すぎて眩暈がしそうなほど、何一つ無駄なものもない完璧な仕組みが、私たち人間のシステムには組み込まれているというわけです。神やばい。

で、つまり何が言いたいかというと、私たちは『自分を知る』という究極的な使命をもって、この世界にいるんだってことなんですよ。

『私とは何?』という疑問は、命の大元からの、最も大切な問いかけです。自分を知ることは、魂にとって、最高の喜びなんです。

だから、その問いが湧いてきたら、スルーせずに向き合ってあげてほしいな、と思います。

私じゃないものは脱いでいく

とはいえ、いきなり『私とは何?』という疑問についてダイレクトな答えを求めることは難しいです。いくら頭で考えても、本質的な答えは出てこないと思います。

名前も肉体も住所も所属も価値観も、変化しちゃう一時的なものでしかないでしょ?これらは≪私≫に張り付いてるものではあるけど、≪私≫そのものではありません。

たとえば腕切り落としたって、≪私≫という存在に変化はないでしょ?腕は確かに肉体の一部ではあるけど、≪私≫そのものじゃない。ここまで切ると≪私≫じゃなくなる、とかハッキリ言えますか?

また、『私とはこんな人間だ(であるべきだ)』という自分の人格を形成している重要な価値観でさえ、何かしらのライフイベントで容易に変化したりしますよ。例えば戦争や災害など。自分だと思っていた自己像は、あまりにも簡単に揺らいでしまいます。

さてさて、では結局『私とは何?』

・・・難しい問いですよね。

だからまずは、日々の生活の中で湧いてくる感情を頼りにして、自分を纏っているものをひとつひとつ脱ぎ脱ぎしていく作業をやっていきます。

無意識に纏っている≪私だと思い込んできた私じゃないもの≫にしっかり気づいて、「これ私じゃなかったわ」と1枚ずつ脱いでいくんです。

ひつじの皮を脱ぎ脱ぎしていけば、やがてはライオンたる≪私≫が現れます。

私じゃないものを脱いでいったら、最後には本質そのもの、純然たる≪私≫が現れて輝きだす・・・そんな仕組みですね。

この、ひつじの皮を脱ぎ脱ぎする作業が、自分と向き合う作業ということになります。

自分と向き合うってどういうこと?

一言で自分と向き合うといっても、どうしたらいいか、よくわからないものですよね。当然です。意識(感覚器官)は外へ外へと向かう性質を持っているので、普段は自分と向き合うどころか、どんどん自分から離れていってしまっています。むしろ離れすぎて、自分を見失っている人がほとんどですから。

要は、み~んな、ひつじライオンなわけです。

だからとにかく、まずは意識を内へと方向転換させないといけません。これまで川の流れのままに流しそうめんみたいにツルツル流されていたものを、腹を決めて踏みとどまり、流れに逆らおうとすることが第一段階。

これが結構大変かも。

で、流れに逆らって源流へと踏み出すとき、とっても重要な綱の役割をするのが、『私とは何?』という根本的な疑問だと私は考えています。

この一筋の綱は”私”という本質へと続いているので、これを離さなければ、どんなに激しい逆流であっても、いつか必ず到達できる仕組みになっています。

で、自分と向き合うときも、この疑問から離れずにいれば、ごちゃごちゃした記憶や感情に引きずられずに、問題の本質だけを拾っていくことができるんですよ。

知りたくないですか?
≪私≫とは一体、何なのか?

なので、自分と向き合う中で混乱したときは、毎回ここに立ち返って「私(=魂)はこの親から、自分の≪何≫を知りたいんだろう・・・」と聞いてみることです。

更に付け加えると、親だけじゃなく、全てのことに「この出来事って自分の何を知りたくて起きたんだろう・・・」という視点を持つと、自己理解がめっちゃ加速していきます。出来事に対する向き合い方が変わってきます。だって全て、材料ですから。

やってるうちに、私とは何か、相変わらずわからないものの、以前よりはぼんやり観えてきます。輪郭がどこにあるかさえわからなかった自己存在が、な~んとなく、わかってくる感じ。

これは実践してみないとわからない感覚かもしれません。

 

~~~~~~~~

 

え!!?
やばくないですか。
終わらんかった・・・

これ、私、無理やり引き延ばしてるとかじゃ、決してないですからね。

いよいよ終わる終わる詐欺の様相を呈してきましたが、次こそ~!!!

次こそ終わり!!!たい。

次回へ続きます。

親子関係の本質を魂視点で理解したとき、人は苦しみから解放される

親子関係の本質を魂次元で捉え直すために

今回はいよいよ親子関係について、最も微細な魂次元から眺めていこうと思います。

『魂次元から眺める』とは親子関係を、好き⇔嫌い、愛着⇔憎悪、許す⇔許さない・・・などの正反対の二極的な観方を超えたところにある、『魂の目的に沿った本質的な意味を理解する』ということです。

本質に触れると、二極の葛藤によって自分を縛っていた苦しみが、もはや意味を為さなくなります。執着していた正反対の二極どちらも、実はそんなに重要じゃなかったと気づき、どーでもよくなります。

「大切なことはそこじゃねぇ!!」とハッキリわかる感覚です。

そしてそこをわかった上で、自分の内側にある本当に大切なことにのみ集中して取り組むことでようやく、自分に対する観方が変わります。そうすると親をはじめとする他者に対する観方が変化し、起こってくる出来事に対する観方が変化し、世界に対する観方が変わり・・・。すると生き癖・パターンに気づくことができるようになり、気づいたタイミングでこれまでとは違う選択をするとパターンから抜け出し、人生が変わります。

だから、人間関係や出来事の本質を捉えることは、自分と自分の人生を変化させていくためにはとっても重要です。二極の対立に意識が囚われているままでは、本当の意味で自分を解放することは、まず無理です(断言)

「親を許したくなかったら許さなくていい。許せない自分を許そう。」というよくある考え方も、自分の心を楽にするという意味では一つの癒しではあります。でも、これも結局は、許す⇔許さないの二極の価値観の中で生きることには変わりないんですよ。

それに自分を≪許す≫のって、やろうとすると案外難しいでしょ?苦しいでしょ?そりゃそうですよ。≪許す≫も結局は二極の片割れ。この二元性世界の相反する二極はどっちに傾いても苦しみでしかない。人間レベルの相対的なジャッジでしかなく、魂レベルの本質じゃないから。
(このあたりのことは、前回までの記事に詳しく書いています)

今回はそこではなくて、その段階のもうひとつ先。

「そもそも最初から、許すも許さないも無かったんだわ(あービックリ・・・)」という新たなステージへ入っていくための、ものの観方のご提案です。

二極の価値観から自分を引き離し、シンプルに本質だけを捉えることで、本当の意味で自分を癒し、浄化し、解放へと向かわせるものです。

「許せない自分を許す」段階から、「許す許さないの二極の概念そのものから脱出する」次の段階へ・・・。

ちょっと難易度高めなので、取り組める準備が整った人が取り組む課題ということになると思います。そして今、あなたがこの記事を読めているということは、すでに準備は整っていると思われます。

・・・あ、”準備”とはどういうことか?というとですね。

ものごとの本質的意味を理解し、受け入れるためには、ある程度それが可能な意識状態である必要があるんですよ。これは私自身の苦い体験からも、ひしひしと実感していることですが、あまりにも意識の縛りが強く、小さいところに押し込めてガッチガチに固まってる状態では、今回の話を読んでも一切、何も入ってきません。たとえ頭で理解できたとしても腹落ちしない。浸透力ゼロ。

(私、昔ヨーガの師から指摘されたことがあるんです。「古い価値観が一杯ありすぎて、何も受け入れないね」って。とても厳しい指摘だったけど、図星でした。ガチでガッチガチの浸透力ゼロ人間でした・・・。そして今もやっぱり思考が強いタイプなので、ガッチガチになりがちなんです。だから少~しずつ浸透させていこうと、いろいろ試行錯誤してます^^;)

だからこそ管理人トヨは、これまで毒親シリーズとして、既存の価値観をグラつかせ、凝り固まった意識の枠を外して視点を引き上げるための文章を、あらゆる角度から延々と書き続けてきました。前回までの記事1~7は心の柔軟体操みたいなもんです。

いやーしつこかったですね。長かったですね。重々承知です。

でも、今回の記事は特に、既存の価値観がいい感じにグラついている状態で読んで頂きたい。なので未読の方、まずは前回記事からどうぞ。

では、まいりましょうか。
ここから魂次元の話になります。

神様の視点に転換して眺めてみると

前回までの記事でお伝えした通り、私たちは、自分と自分の人生を親を主軸に捉えているうちは、本当の意味で自分の人生を生きることはできません。

毒親自分を・・・」
毒親のせいで自分は・・・」
毒親から自由に・・・」

例えばこんな意識。
まるで親ありき。

親が自分の人生の中心に座しているような感覚を、自ら創り出していますよね。「親から囚われているカワイソウな私」という世界観の中で生きる宣言を、こういう妄想をするたびに、宇宙(=自分)に対して行っているわけです。で、その願いは毎瞬間叶い続けている状態。”カワイソウな私”を延々と体験します。

だから魂の課題は終わらないし、変わらない。何世も何世も、肉体をチェンジしては同じパターンを繰り返す≪輪廻≫という魂の病に私たちは苦しむんですね。
(※輪廻を魂の病と捉えるのはヨガの考え方)

ここから抜け出すためには、自分をガチガチに凝り固めて制限している視点を一旦全力で放り投げ、魂の視点から新しい視点で見つめ直すことが必要になってきます。

新しい視点とは、まるで神様みたいな視点。
『創造主』『観照者』の視点です。

つまり、魂の目的(=真の自分を知り、真の自分に至り、輪廻という魂の病気から自分を解放すること)を果たすその瞬間まで、この世界の全てをあなたに与えて、必ず目的にたどり着くと信じて見守り続ける視点

例えるならRPGゲームの制作者の視点のような・・・。

そんな視点で、≪あなた≫という存在と、あなたを取り巻く世界を、どこまでも高いところから、客観的に眺めてみましょう。

すると、親という存在に対する観方はこれまでとは違ってくるんですよ。

親の果たす魂次元の役割とは?

では質問です。

  1. あなたの親が、あなたの人生に、そういう感じ(人格や経済力や価値観等)で配置されたのはなぜだと思います?
  2. 親はあなたにどんな体験を与え、あなたはその体験から、本当は何に気づきたいんでしょうか?自分の何を知りたいんでしょうか?
  3. あなたを魂の目的に導くのに、あなたの親はどういう役割を果たしているでしょう??

・・・・・・・・。

あ、これ、魂次元で親という存在をどう捉えるか自覚するための質問なんですが、今わからなくても全然大丈夫ですよ。こういうのは頭だけでいくら考えてもわからないのが普通なんで。本質にたどり着かせたくないエゴちゃん(思考)が、ちゃんと邪魔してくると思います。

それよりもここで重要なのは、ものの観方のほうです。

『親をどう捉えるか』

これが、魂次元の観方では、肉体次元とは全く違うの、わかりますか?

魂次元では、愛憎とか、好き嫌いとか、許す許さないとか、そういう二極対立の視点とは全く別の視点から、親という存在を捉えているんです。

そう・・・これはまるでゲーム制作者がシナリオを考えるときの視点です。その視点からもう一度上の質問を読んでみてください。上でも書いた通り、ゲームの最終目的は『あなたが真の自分を知り、真の自分に至り、輪廻という魂の病気から自分を解放すること』です。この点はみんな一緒。

さて、あなた(=魂)があなたの人生のシナリオを書くなら、最終目的地へあなたを向かわせるために、どんな体験をあなたにさせたいでしょうか?

あなたがああいう感じの親の元に生まれたことで、体験してきたこと。苦しんだこと。気づいたこと。出来事は一見バラバラのように思えても、実は一貫した大きなテーマ必ず隠れています。それはひたすら『自分を知る』という最終目的にのみ沿ったもので、その全てが『自分を知ることができるあなたに成っていく』ための体験で、ただの一つも無駄な体験はありません。

そして親は、あなたがそれらの体験を滞りなく行えるように、あなたの人生に配置されました。

つまり魂次元では、親とは、あなたの人生に必要な体験と気づきを与えるために現れている存在です。

RPGゲームでいうNPCキャラみたいなものですよ。様々な体験を促し、ヒントや援助を与えたり、時にはピンチに陥れ、苦境にさえ立たせる存在。でもその全ては、主人公が成長し、いずれそのゲームをクリアするために必要があって配置されたキャラクター。

まさに神様は創造主。
自分で創って、自ら記憶を消すプログラムを仕込んどいて自分で楽しんじゃう変態ゲームクリエイター

結局のところ親は私たちに、今生向き合いたい課題の材料を与えてくれているだけ。彼らは自らの存在と人生を全て差し出して、わざわざ自らの≪毒≫を私たちに見せてくれてるんです。もちろん親本人はそんなこと無自覚だろうけど。

存在そのものが愛

因みにね。
私はこれって愛だよなぁ・・・と思ってしまうんですよ。いや、もう、存在自体がね。本当にすごいなーと。だって彼らは、私(魂)が欲している本質的気づきのために、未浄化なままで私の世界に存在して、自らの命を賭して、私に貴重な体験と気づきを与えてくれてるんですよ。苦しいだろうに・・・。

私が心底気づきを得るまで、私の人生の中で、何も変わらない状態で留まってくれている彼らって、すごくない?? 苦しいだろうに・・・。

毒を持ったまま(=未浄化のまま)変わらずにいるのって、本当に苦しいんですよ。たとえ無自覚でもね。

なにしろ、彼らも私たちと同じ『自分を知りたい』魂ですから。そのために肉体を持って生きているわけですから。本当は(意識の深いところでは)変わりたいんですよ。

そんな魂が、肉体という限りある命の時間を使って、親という役割の中で「私たちに体験と気づきを与える」という魂レベルでの最高の奉仕活動をしてくれてるわけです。それってもはや、存在そのものが愛だし、ホントすごいわぁ・・・と、率直に素直に、そう思ってしまいます。

存在が、愛そのもの。
私にとっては、在り難い存在。

(まぁ、そう思えないときも多々ありますけどね笑 やっぱり肉体次元の意識のほうが、この世界では強力ですから・・・)

愛は無限・・・ということは体験も無限にやってくる

もちろん親以外のすべての存在も、観方は同じです。

完璧な采配のもとで、完璧に配置された、完璧なタイミングで提示される完璧な気づきの材料をくれる存在(魂)たち。肉体次元の人間意識では「アイツ絶対許さねぇ・・・・」と一生恨みたくなるような大嫌いな人も、結局は私(魂)のために居てくれてる。

ソーデスカ、ソーデスカ。よくぞそんな人格キープし続けて、わざわざ私と出会ってくれちゃったわね、アナタ。

神(=自分)のクリエーター精神には、もはや驚愕ですよ。

よく創ったね、こんなキャラ・・・。
そこまでして一体私に何を気づかせたいんだい??

滅茶苦茶めんどくさいけど仕方ない、アイツとの体験が、自分の内側のどこに引っ掛かってるか、一回内面探ってみるかぁ・・・はぁ~あ。

と、毎回そんな感じです。

だって、せっかくだから、さっさと取り組んじゃったほうが早いでしょ?

なにしろ神の愛って無限∞なんで、回避してるだけじゃ、無限に似たような体験が差し出されてくることを、もう私は知ってしまっているから。

まるでダンジョンの無限ループかのよう・・・。古のヨーガ行者さんがこの現象を『魂の病』なんて表現しちゃったのもわかる気がするわ。

だからもう観念して、必要なことに気づいて課題をクリアしてしまったほうが、私的にはよっぽど楽なんですよ。

こちらが変われば大嫌いなアイツも、現状をキープする必要が無くなって、何かしら変わっていくんだろうし。

結局、新たなストーリーが展開していくようになるためには、自分のレベルを上げてダンジョンをクリアしていくしかないってことです。

・・・なんか例えがRPGゲームばっかりですみません。でも便利なんで、きっとこれからもこの例え話、しつこく使う予感します。

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はぁー。
めっちゃ下線引いた気がする。

そして残念なことに、今回で終わらせるつもりだったけど、全く終わらなかった!!! どなたか、”気がついたら超長文になってしまう病”を治す方法を知りませんか?

というわけで次回へ続きます。次回こそ、このシリーズ終わらせてやる~!

親から愛されないのは自分のせいじゃなく、親自身の心の毒が原因

はいーどうもどうも。
最近、鼻うがいにハマっている管理人トヨでございます。私にはなんと鼻の穴が2つもあるため、それに合わせて容器も2つです。使い分け大切。

しかし眠いぃぃぃぃぃぃ・・・
今、激烈な眠気と闘っております。
お蔭で変なテンションです。
さぁ、書いていくとしますか~

前回は、「本当の愛とは一体なんぞや!?」についてと、「宇宙の理に全力で反旗を翻し、母親を自分の理想通りに変えてやろうとした結果、管理人トヨに勃発したエネルギー枯渇問題」について書きました。今回はその続きですね。

エネルギー枯渇問題の発生

前回、親の毒浄化代行作業を無意識でやっちゃった結果、自分のエネルギーが枯渇したわ!っていう私の残念な体験談をお伝えしました。

実はこのエネルギー枯渇問題、私のように実際に代行作業をしなかったとしても発生するんです。

怒りであれ憎しみであれ、意識を親に向けるってことは、自分の貴重なエネルギーを親へ注ぎ続けてることにはなんら変わりありません。

インドの行者さん曰く、エネルギーは、意識した先へと流れていくからです。

(因みにインド哲学では生命エネルギーのことを≪プラーナ≫と言います。なんか聞いたことあるような??って人もいるかもですね。東洋では≪気≫のことかな?)

悩むと疲れるのは、意識のエネルギーが悩みの対象に向かって流出しているからです。親のことで悩むってことは、親に向けて自分の貴重なエネルギーを垂れ流ししているのと一緒です。

この点にいつも気づいている状態で、それでもどうしても親を変えたいと願うのであれば、それはもう、あなた自身が選び取った自分の課題として、とことん引き受けていけばいい。

でも無意識だったなら、それすっごい重いからやめておきましょう。

親の分まで背負わなくていいんですよ。さすがにオーバーワークです。人生は短くあっという間なので、自分の課題をこなすだけで精一杯だと思います。

自分に向き合う意識がエネルギー枯渇問題を救う

相手を変えようとするのはエネルギー枯渇問題を引き起こすので、私はあんまりオススメしないんですけど、自分を変える作業は結構オススメしてます。

エネルギーは意識する方向へ流れるとお伝えしました。

私の個人的な体感ですが、自分と向き合うために意識を≪内側≫に向けていく作業は、そこまでエネルギーが枯渇する感覚って無いんですよね。

それってある意味当然で、自分に意識を向けているわけですから、エネルギーは自分へと流れるってことで・・・要は、内側にエネルギーが循環し、保たれていることになります。

もちろん内観(←私は思考の届かない意識の深いところで熟考していく瞑想や、陰性感情をたどり、表面上の出来事の奥にあるパターン化した本質的原因を観ていく自己流のセルフインナーチャイルドセラピー?のようなものをよく行います)している間は深く深く自分の内面を探究していくので、それなりにエネルギーは消費しているんじゃないかな?とは思ってるんですけど・・・

その一方で、私が行っている内観では、紛失していたいつかの自分を拾い集めていくような感覚があって、何かを発見する(=気づきを得る)と、パパパパーンパーンパーンパーーーーンって一つレベルが上がって、HPが回復するような・・・。自分が愛おしくなるし、内側からあたたたかくなるような感覚もあったりします。あくまで個人的な感覚です。

なんでかはまだよくわからないんですけど、多分、魂次元の≪気づき≫を得るときって、本質としっかり繋がってるんじゃないかなーと。(※本当はいつでも繋がってるんですけど、私たちは日頃、本質を忘れ去った状態で生きていますから)

前回の記事でお伝えした通り、私たちの本質=愛 ですから、愛(無限エネルギー)に触れることで、HPが回復してるんじゃないかな~

・・・っていうか、こういうの、ゲームで例えていいものなのか。実際はもっと静かで深淵なものだと思います(;^ω^)

でもそう。
結局最終的に行きつくところは全て、愛なんですよ。
これ、別にキレイ事とかじゃなくて、実に生々しく、あきれるほどに愛なんだと思います。そんな気がします。うむ。

と、こんな感じで、エネルギー枯渇問題を解決したくば、外に意識を向けるのをさっさとやめて、自分に意識を集中させて毒の浄化に励んだほうがいいかもね!というお話でした。

私は断然こちらをオススメします。

親の課題は親自身が解決すべきこと

親との共依存関係にあって、境界線がうまく引けずに悩んでいる方なんかは、特に意識してもらえるといいなーと思うところなんですが・・・

親の課題と自分の課題をきちんと≪識別≫できるようになると、か~な~り~楽になるんじゃないかと考えています。

アドラー心理学でいうところの、『課題の分離』ね。

・・・あ、因みにちょっとややこしい話をしていいですか。話が逸れますが。

このブログでは心を上手に取り扱うための”ものの観方”について、インド哲学的な考え方をベースにしたご提案を行っていますが、私自身はこの場でインド哲学の専門的な智識を前面に出す必要は無く、ひとまずはそのエッセンスだけ伝われば十分だと思っています。なのであんまり専門用語などに頼らず、誰が読んでも理解できるように書いているつもりです。

そもそも私は個人的に、哲学の智識はあくまで自分を癒し自己探究するための手段であり、目的じゃないと考えているタイプです。なのでインド哲学の理論めいたことを、重箱の隅をつつくみたいに語るつもりは基本的に一切無いんです。学者じゃあるまいし。そして何より私、まだまだ勉強中の身ですしね。

けれど、これだけは先に言っておかねばやばい、ということがあることに今気づきました。私が今後も気持ちよく記事を書いていくために・・・。
それが以下の内容です。

仏教哲学とインド哲学における≪識別≫という言葉の捉え方について

『物事を見分ける』『区別する』という意味で使われる≪識別≫という言葉について、仏教哲学とインド哲学では全く違う捉え方をしています。

仏教では≪分別(ふんべつ)≫(←識別と同義)は自分と他人とを区別することから、我執(自分に対する執着)や我所執(所有欲)を生むことになるため、仏道の障り・煩悩の原因になるとされています。逆に自分と他人とを区別しない『無分別智』によって苦しみから逃れることができると説かれています。要は「自分と自分以外とを区別することはよくないよ」っていうのが仏教の考え方です。

それに対してインド哲学では自分(観照者)と対象物(被観照者)とを混同・同一視せず、“自分は対象物では無い”ことを見極める『識別智』は、煩悩から自分を解放する智慧だと教えられています。そして≪識別≫を極めたその先の先、究極の段階で、執着・自我意識が完全に消滅したときに自分と自分以外との区別が無くなり、二元性(二極の対立)を超えた永遠無限の”一”なるものを悟ると説かれています。要は「自分と自分以外とを区別していき、最後にたったひとつ残ったのが真実の自分だよ。その真実の自分に到達したとき、なーんだ全部自分だったんだと気づくよ。その気づきを得るために、自分と自分以外を混同せずにきちんと区別して見極める訓練をやっていこうよ」っていうのがインド哲学の考え方です。
(インド・ヴェーダーンタの不二一元論)

仏教とインド哲学、どちらも最終的には二極を超えて区別の無いところへ至ると思うんですけど、≪識別(分別)≫という言葉に対する捉え方が、仏教とインド哲学では全く正反対なので、熱心な仏教徒の方にとっては、このブログの内容は非常に受け入れがたいかもしれません。

私はインド哲学を学んでいるため、≪識別≫を使って自分と向き合い続けています。当然このブログも、≪識別≫は自分を解放するための智慧という認識の下に書いていきます。これからもめっちゃ重要なキーワードとしてたびたび登場すると思います。

私をインド哲学の道に導いてくださった師は常々「悟りへの道は人それぞれ、人の数だけある。違いに囚われて執着するな。最終的には同じところに行くんだから。」とおっしゃっていました。現に仏教からでもヨガからでも悟りに至る人はいるし、哲学なんて学ばなくても悟りを得る人だっています。

そういうわけなので、この違いについてはいろんな考え方がある中のひとつの考え方と捉えて頂き、気に入らない場合はこのブログを上手にスルーして頂けると助かります(^人^)

・・・さて、スッキリしたので話を戻しましょ。

親の課題と自分の課題とを≪識別≫する話です。

親の課題である毒(=認知の歪み、記憶、思い込み等)は、彼ら自身がいつの日か(今生か、はたまた来世か・・・)必ず自分で浄化することになっています。

わからせたいとか反省させたいとか、そういう私たちの想いとは関係ないところで、いずれ必ず彼らは自分と向き合うことになります。これは確定事項。(←ここはインド哲学の教え)

だからその流れを信頼して、「彼らが求めている気づきを、いつか得られますように」って、静かにそっと心の中で手を合わせて祈っとけばいいんです。

自分の都合通りにコントロールしようとするのをやめて、自分の苦しみをわからせようとするのも、過ちを知らしめようとするのもやめて、より大きな存在、魂レベルの壮大かつ完璧な流れに、親を丸ごと委ねてしまう。

祈って、流れを信じて、あとは宇宙に丸投げです。

親との関係において、許す⇔許せないの葛藤に苦しみ続ける人は多いと思います。でも本来この相反する二極の苦しみさえ私たちには不要だし、無意味です。丸投げに『許す』も『許せない』もありません。

制限された意識で思考機能をいくら酷使しても、答えなんて出るわけがないんですよ。親子関係の微細な魂次元の真実が、粗雑な肉体次元の脳の機能で判断できるわけがない。

魂次元では、親には親の≪毒浄化計画≫がちゃんと用意されてます。

そこにわざわざ人間レベルの低くて狭い意識でもって干渉するなんて、バカらしいと思いません?

(自分はやらかしといて!?って感じですけどね。いや体験して味わい尽くしたからこそ、声を大にして言いたいんです)

背負わない。
引き受けない。
引き入れない。

これがエネルギー枯渇問題を安易に引き起こさないコツです。

そして実は、こうやって宇宙に親を丸ごと委ねることは、自分の意思で親から手を放す、自立に向かう作業だったりします。

親を握りしめて放さないエゴちゃんのその手・・・心を、自由にしてあげるための作業ね。親の呪縛から自分の心を解放してあげられるのは、やっぱり自分なんですよ。

だってそうでしょ?
自分が親に執着したくて、してるんだから。

親がどうあろうと、関係無い。
わかってくれまいが、愛してくれまいが、それはあなたの問題じゃない。

わかることができない。
愛することができない。

これは親自身の内的問題であり、彼らが取り組むべき課題。

あなたが背負い込む必要のないこと。
あなたが引き受けて浄化してあげる必要のないこと。
彼ら自身で取り組むべきことであって、あなたの課題じゃない。

だから、あなたは自由になっていい。

あなたの課題は、あなたを自由にすることです。

「私があなたを理解するよ」
「私があなたを愛すよ」
「生まれてきてくれてありがとう」
「懸命に生きてくれてありがとう」

エゴちゃんにそう言ってあげられるのは、親じゃなくて、あなたです。だって、あなたの哀しみも苦しみも怒りも絶望も、その全てを知っているのは、あなただから。

あなたが覚悟を決めて、全力で自分を愛すんです。
内側の愛で、自分を満たしてあげるんです。

あなたの本質は、愛なんだから。
あるんだから、愛。

愛がないと錯覚しているエゴちゃんに、これでもか!と愛を伝えてあげましょう。

次回へ続きます。

本当の愛とは何なのか/親を自分の思い通りに変えることはできる?

はい、お久しぶりです。管理人トヨでございます。家族内で生死を学ぶニューライフイベント発生中につき、ブログ更新がもっぱら滞っております。

物理的に忙しいのと、体力・精神力の消耗が激しくて、とにかく眠い。それでも少しずつ記事は書いていたので、まずはその分をアップしますね。

前回記事の終わりに、自分で自分に愛を注ぐことができる自立した自分になるためには、『まずは親や自己存在、関係性の真実などについての認識を、自分に擦り込んだ思い込みという縛りから解き放ち、もっと意識の範囲を拡げて引き上げ、新たなイメージへと刷新する必要がある』と書きました。

実は、これまでずっと書いてきた≪毒親≫についての記事は全て、この目的のために書いてきたものです。ひたすら思い込みを外し、意識を拡げてグイッと引き上げるための新たな視点をいろんな角度から、お伝えしてきました。

今回の記事もその続きです。意識を制限する檻をぶっ壊したい方、もう少しお付き合いください。

続きものなので、前回までの記事を読まれていない方は、以下からどうぞ。

無条件に愛されたいという願い

前回、親を嫌って否定することは、裏を返せば、激しく親の愛を渇望してることと同じという話をしました。

いつか自分の気持ちを理解してくれるんじゃないかという親への期待を捨てきれていないからこそ、潜在意識のエゴちゃんが、心の深いところでがんばって親への執着を手放さずに握りしめている状態です。

親をあきらめていないエゴちゃんがいるんでしたね。

そして、それは自我意識発の欲(親を自分の思う通りにしたいという自己都合の願い)からきています。

自分の理想通りに無条件に愛してもらいたいし、わかってもらいたいし、受け入れてもらいたい。本当はこうしてほしかった。こう言ってほしかったという理想のイメージが、確かにあるわけです。

これは≪自我意識≫が標準装備された人間なら誰もが抱く、とってもシンプルで、愛すべき自己都合の願いです。そう願うこと自体に、良いも悪いもありません。

本当の愛を知っているからこそ、執着する

更に深い話をすると、私たちは無条件に愛されたいと願い、愛を求め執着する生き物ですけど、それって実は、本当の愛とはどういうものか、すでに知っているからこその願いなんですよね。

真の愛を、意識の深いところで最初から知っているからこそ、「これは本当の愛じゃない」「自分は愛されてない」と感じるのであって、もし愛について一切知らなければ、愛について悩むことなんて、できないんですよ。

葛藤自体、湧いてきません。

では愛とは一体何なのか

実は、愛とは、存在そのもの。
つまり、自分自身の本質であり、大いなる意識、絶対意識、純粋意識、真実在、真我、神我・・・です。呼び方はいろいろですが。

たとえ言葉の表現は様々あろうとも、我々の本質こそが純粋意識であり、存在であり、愛である、といえます。

だから、本当の愛を得たければ、外側に向かって彷徨う感覚をグイッと自分に引き戻して、自分の本質に意識を向ける作業をひたすら行うのが一番手っ取り早かったりします。(←ここはインド哲学の教え)

外へ外へ・・・と愛を探し求めるほど、本質から遠ざかるので、愛(=自己の本質)がわからなくなりますね。

そうそう。
この点は間違って解釈してほしくないので一応書いておきますが、ここでいう愛って、一般で使われる心理学的な『自己愛』とも『愛情』とも違います。この世界で『私』を構成している、意識の外側に貼りついた情報、概念、思い込みなどをひとつずつ引き放していった末に見いだせる、超純粋で清浄かつ永遠不変なものです。
(”もの”でもないけど)

が、とうてい文字では表現できるものじゃないし、また長くなるので・・・またいずれ、別の機会に。

とにかく、私たちは、無意識ではすでに愛を知っていて。
だからこそ、強く愛に執着し、失望を繰り返します。

愛を知っているからこそ、周りの人間に「それは愛じゃない!!」「本当の愛を頂戴!!」って言いたくなっちゃう。クレクレ星人化しちゃう。

愛を渇望するあまりに、自分の理想通りの愛を与えてくれるよう周囲の人間を変えようとすることで、自分を満たそうとします。

実際に親を変えようと頑張った体験談

ただ、自分以外の存在の意識を変容させようと願う心の働きって、実はものすっごいエネルギーを浪費してるってことは、知っておいても損はないかもしれません。

ほら、よく言いますよね?
「相手を変えることはできないよ」って。

これを無意識でやってやろうとしてるんだから、まー大変ですょ。

そもそも、たとえ無意識だとしても、親を自分の思う通りにする、変えようとするってことは、親が変容するために必要な親の毒の浄化作業を、自分のエネルギーを使って代行するのとほぼ同一なんじゃないかなーと、私は経験上感じていて・・・。

参考までに、私自身の体験談をお伝えしますと。

私の場合は謎に言葉に説得力があるタイプだったので、その謎能力を駆使して、実際に母親の変容を促す行動を取った・・・いや、正確にいうと、自分の欲を押し付ける形で、母親を自分の理想通りに変えようと頑張ってしまったんですが。

それはときに、強い言葉で批判したり、ねじ伏せたり、間違いを正そうとしたりしたこともありましたし、感情を大放出して責め立てて無理矢理謝らせようとしたり。

みごとに最悪な関係に陥りましたね。あの頃は私もきつかったけど、母もさぞかし意味不明な苦しみだっただろうなー。

頑張った結果、親は変わったのか

で、5年ほど(長っ)そういう時期を経て陰極まりまくった結果、どうなったかというと・・・。

実は、彼女の認知を、少しずつ変化させてきたような気もせんでもないんですよ。今観た感じ、若干ですが浄化が進んだ感じもある。母。

まだまだ大きいのは抱えてるけど。でも関係性は変わったかな。以前よりかなり穏やかになってます。

あとは、過干渉な言動に関しては、現在も同じことを繰り返そうとするけど、「ほらまたやってるよ」と一言いえば、ハッと気づいて渋々やめる、みたいな。

まーこれは、私の取扱説明書の第一項「過度な干渉は嫌いである」を5年間ほど何かあるたびに母に延々懇々としつこく説明してきたので、その成果かもしれません。

だから、困難だけど、全くできないわけではない、という印象。

・・・でもこれってきっと、自分と相手の性質や意識の段階にも寄るんだろうな。うちは父は手が飛んでくるタイプで言葉なんて全く通じなかったけど、母は過干渉&共依存タイプで、一応言葉で会話ができたから。

(言葉が通じたからこそ、禁断の悪手である『相手を変える』に手を伸ばしてしまったとも言えますが)

もちろん世の中には摂り付く島もない親も当然いると思います。物理的に関わらないほうがいい親もきっといます。だから、私の体験はあくまで個人的なものでしかありません。ご注意を。

それに私の場合、同時に内面と向き合い必死に浄化に励んでもいました。『自分が変われば相手も変わる』っていうじゃないですか?なので、自分の変化に伴って親が変化したのかもしれません??

それか、単に母が変わるべくして変わっただけということも。意識の段階が変化するタイミングに重なったということも考えられます。

・・・こんな感じで、本当は何が作用したのか、正直曖昧な部分もあるんですよね。

親の毒浄化作業を代行する代償

ただ、これだけはハッキリ言えますが、この工程って猛烈に疲れるんですよ。

いやホントに。
持っていかれます。エネルギー。

そりゃー疲れて当然ですよ。親へ時間も体力も精神力も、どんどん流し込んでいくわけですから、エネルギーなんて、残るわけない。

親に意識が囚われている(=執着している)あいだは、自分の人生を創ることなんてできっこないんです。エネルギーが親に向かって大量流出してるからね。

親を変えたいというエゴちゃんの願い(欲)を叶えようと頑張って、親の内的変容を自分のエネルギーを大量消費して促した結果、結局自分が完全に枯渇した・・・そんな体験でした。

結局最後は疲れ果てて、家を出ましたし(笑)

今、この体験をあらためて振り返ってみると、母親の浄化作業を一部代行してやった形になってしまったように思えてならないんですよ。彼女自身で浄化すべき毒を、図らずも、一部私の人生に引き入れて、本来は自分に向けるべきエネルギーを、大量に彼女に注いでしまったかな、と。

意識が母親に深く没入していた感覚・・・。その間、自分の人生の中心に、間違いなく自分はいなかったです、ハイ。

『欲望からの行為は、最終的に苦しみしか生まない』・・・というインド哲学の教えからすると、私きっと、やらんでいいことやっちゃったんだろうな、とも思ったり。でも、それも含めて家族の縁を結んでいるだろうし、大きな流れの中での役割、という感じもしなくはない・・・(自問自答)。この点に関してはもっと人生を先に進めてみないと、真実は観えてこないです。

でも、貴重な体験ではありましたよ。
こういうのって、自分で実際にやってみないとわからないから。

次回へ続きます。