ひつじライオンの夜明け

ひつじライオンの夜明け

自分と本気で向き合い癒したい。本質を見極める目を養いたい。そんなあなたへ新たな視点をご提案。

生きづらさの原因となる思い込みを解除する方法(具体例を元に解説)

今回は、生きづらさの原因となっている価値観(信念/思い込み)と、親から与えられた≪毒≫という名の材料を使って、どんな感じで自分と向き合っていけばいいのかを、具体例をひとつ挙げつつ書いていこうと思います。

とはいえ、今世の環境も体験も、そこで形成される価値観も、もともと持ってきている特質も、過去世から持ち越してきている記憶の種も・・・何もかもが各々全く違うので、どう向き合い癒していくのかも、人それぞれ。一概には言えません。

それでもまぁ、同じ人間。
心の働きにはパターンが存在している気はしてるので、ある程度参考にはなると思います。

あくまで管理人トヨの場合はこんな感じ、という雰囲気で捉えて頂けると幸いです。

なお、以下の具体例は前回までの記事を全て読んだ前提で書いているため、まだ読んでない場合、意味不明かもしれません。すみませんが、先に前回までの記事を全て読んでから、またここに戻ってきてください。めちゃ長いですけど。

↓こちらからどうぞ。

自分と向き合う方法(具体例)

早速行きましょう。
嬉し恥ずかし、私、トヨの事例w
さらけ出すから、よく見とけよぉ( ゚Д゚)

周りに迷惑掛けて平気な顔して生きてる人間に対して、ものすごい怒りが湧いてしまう。

これこれ笑
私、自分本位な意識で周りに迷惑掛ける人がとにかく嫌なんです。自分さえよければ周りはどうでもいいっていうタイプね。そういう人に対してめっちゃイライラします。

騒音主とか、自分の仕事を平気で周りに押しつける人とか。並んでいる列に平然と割り込みしてくる人とか。夏、マンションの自分の部屋にゴミを置きたくないからと、共有廊下にゴミ置いとく人とか。

こんな感じの人が私の世界に現れると、なんだか猛烈な怒りが込み上げてきて仕方がないわけです。

わかりやすいので、もう先に言っちゃいますが、私が持ってる価値観(信念/思い込み)としては

『人は(=私は)周りに迷惑を掛けるべきではない』・・・です。

この価値観で自分も周りもガチガチに縛り上げます。あわよくば、その迷惑掛けてる人を、煮えたぎった怒りをぶちまけて自分の理想通りに正そうとしたくなるほど、強烈な感覚があります。

実際、当時勤めていた会社のめちゃ自分本位だった社長を、怒りのままに叱り倒した経験もあります。

あ!かなり若かりし頃ですよ~
今はしません。黒歴史

正義感スゴツヨ、人間魚雷タイプ。
たとえ玉砕しても自分の正義を守りたい。

そんな私。・・・のことが、ホントに自分でもわけわからんし、面倒くさくて大嫌いでしたよ。いつも後悔ばっかりでね。

まぁ、そもそも正義って言っても、それこそ振りかざすほうも”自分本位”で自分勝手なんですよね。人間レベルの正義なんて、あまりにも相対的で移ろいやすく、ホントは在って無いようなものなんですが、そこを理解するまでかなりの時間と痛い経験を要しました。

こんな感じで、制御が困難に感じるほどの強烈な怒りが湧いてきてしまうので、もういっそ、明治維新辺りにおとことして生まれてりゃ、華々しく命を燃やして潔く散れたんじゃないか・・・生まれる時代間違っちゃったんじゃないか??と真剣に悩んだりもしました。

・・・ここら辺の発想は私らしくて面白いな、とは思いますが笑

生きづらさの原因となる価値観

何が一番厄介かって、この価値観を持っている限り、ずっと何かしら誰かに怒っていなきゃならないことなんです。

インド哲学では現代は『カリ・ユガ』の時代と云われています。

【カリ・ユガ】
人間の文明によって人々が神から遠ざけられ、霊的な堕落を引き起こしている暗黒時代と呼ばれている。人心は荒廃し、貧困・憎悪・狂気・悪疫等あらゆる害悪が蔓延する時代。

もう、世界は自分本位な人ばっかりよ。私も含めて。

こんな暗黒時代の、あらゆる意識段階の人間がいる世界の中で、粗塩でゴシゴシ塩揉みされてごらんなさいよ。痛すぎて怒りしか湧かん。

この価値観、間違いなく私の生きづらさの原因ベスト10に入ってるやつ。

そりゃー生きるの、めっちゃ苦しいわ。

怒りの感覚をたどって内側に潜る

このケースの場合、まずグイグイ主張してくるのは『怒り』です。とにかく許せないわけです。なので、実際に自分と向き合うときは、まずはこの怒りの感覚を頼りにして、深く自分の内面に潜っていくことになります。

内観の時間の始まりです。
怒りを、排除もジャッジもせずに、ただ静かにたどっていきます。

≪たどっていく≫というのが結構私個人の感覚的なものなので、正直、言葉での説明が難しいと感じるところなんですが、めっちゃ集中しつつ、怒りの感覚を、『怒り』という名称のラベルを一旦外してただの『何かの感覚』に戻したうえで、「あーこういう感覚なのね」と確認しながら、少しずつ意識の深いところに潜っていくような、そんな感じです。

あ、それと、潜っていくときは、『この感覚の奥には何があるだろう?』『私は何を感じたいんだろう?』という思いを持ちながら、深いところへ潜っていくような感じもあります。

この作業を続けていると、怒りとは違う、別の感覚が感じられてきます。

『怒りは二次感情』ってよく言われますが、本当にその通り。怒りで覆われていたその奥に、別の感覚がちゃんと隠れてます。実際にやってみたらわかります。

私のこのケースの場合は、底知れぬ悲しみ
あとは無力感と、「いい加減にしてよ・・・」と絞り出すような感覚が湧いてきました。

これらの感覚を発見した瞬間、怒りは静かに消えます。

ここが私が面白いなぁと毎回感心するところなんですけど、怒りの感情って、内側の深部への道案内役みたいな役割なんですよね。だから、自分の役目を終えて次の感覚に引き継ぐと、さっさといなくなるという・・・。実によくできてる仕組みだなぁと思います。

そうして発見した感覚を、『悲しみ』『無力感』などの名称のラベルを一旦貼らずに、しばらく「あー私、こういう感覚を感じてたんだ・・・」とじっくり確認しながら感じていきます。

この作業だけでも、人によっては、また、価値観の内容次第では、かなり癒されたと感じるはずです。

感情を感じるときの注意点(大事なこと)

注意点としては、その感情・感覚に引きずられすぎないこと、です。

大泣きしてスッキリして終了!!!となってしまうと、ただその瞬間湧きあがった感情に飲み込まれてるだけなんで、確かに感覚は喜ぶし、涙を流してスッキリはしますけど、実は本当の意味での自己理解にはならないんですよ。

本当に浄化するためには、その感覚を持った理由を知って、自分を理解し、流れを理解し、世界を理解し、二極を超えたところの視点から認知を修正したうえで、真実を受け入れる必要があります。

なのでこの作業の続きを行うためには、どちらかというと、『客観的に観ながらじっくり調べて確認する』というスタンスでいるほうがいいように思います。

・・・実は私、インナーチャイルドセラピストの資格を持っていて、昔は、深いところにある感覚を発見したら、その感情にどっぷり浸ってワーッと泣いて「本当はそう思ってたんだねー」とインナーチャイルドの気持ちを理解して受け入れ、スッキリして終わるというやり方をやっていた時期がありました。

でも、このやり方では、人生の生き癖パターンから抜け出せなかったです。

自分の気持ちをわかったつもりになってるけど、肝心の認知の仕方が全然変わってないため、同じような出来事が来たら、また同じ認知・行動パターンを繰り返してました。

当時はその理由がわからなかったですけど、今はわかります。インド哲学の人間の構造に関する智識で、そこらへんの仕組みは明確に説明できます。

長くなるんで、今回はしませんけど。

(あ、抜け出せなかったのは、私が勉強不足で向き合い方が下手くそだったからですよ!素晴らしいインナーチャイルドセラピストさんもいらっしゃいますので誤解なさらぬよう・・・)

まぁとにかく、内観中は感情・感覚に引きずられずに、自分が自分の専属セラピストになって寄り添う感じで、愛と軸をしっかり持って、客観的に向き合うことをオススメします。

沸き起こる感情に酔っぱらって気持ちよくなるだけじゃあ、せっかくの内観がもったいないです。

その感情・感覚を持った理由を探ってみる

内観作業の続きです。
ここからは記憶に触れていきます。

先に申し上げておくと、記憶は無理にこじ開けるものではありません。何も出てこないなら、今それを扱う時ではないと理解して、そっとしておいてあげましょう。

特に、激しくトラウマ化した記憶の場合は、かなり慎重に取り扱う必要があります。そういうものを持っている人は、熟達した心の専門家を頼ってくださいね。自分ひとりで触ろうとしないようにしてください。

~~~~~~~

それを踏まえて、以下のケースは、個人で取り扱える範囲の記憶の浄化作業です。

では参ります。

底知れぬ悲しみと、無力感と、「いい加減にしてよ・・・」と絞り出すような感覚をしばらくじっくり感じたら、次は、この感覚が、これまでの体験のどこに紐づいているかを観ていきます。

今生の体験・・・できたら”今生の最初の体験(=フラグが立った体験)”を探ります。

過去世を観てもいいんですけど、浄化に必要な体験は全て、今世で体験するはずなので、調べるのは今世だけで十分だと思われます。

どの地点の記憶であれ、必要があれば、自ずと出てきますから。

≪出てくる≫というのが、これまた私個人の感覚的なものなので、どう表現すればいいか難しいところなんですけど、内側に意識を向けつつ、上記の感覚を感じつつ、『この感覚って、どこから来てるんだろう?』『どこが始まりなんだろう?』と、自分に聞いて、静かに答えが返ってくるのを待つ感じです。

頭で考えるんじゃなくて、その感覚に意識を集中させて、感覚の根っこにあるものが浮き上がってくるのを、待つ、待つ、待つ・・・・。

静かな時間です。

何も出てこなくてもいい

出てこなければ、ここで終わり。
上で書きましたが、無理やりこじ開けないで、ただ、出てこなかったということを受け入れておきます。

それでOK。十分です。
『今は心がちゃんと自分を守ってくれてるんだなぁ』と、思っていてください。

実は、自分との向き合いを実践したこと自体に、ものすごく意味があります。その時間は意識を内側に全集中させていた訳ですから、魂にとっては大きな歓びです。

過去記事ですでに書きましたが、自分を知るために内側を探索することは、魂の本質的な願いに沿った行為なんですよ。

それに自分を大切にする時間を集中して過ごせたって、すごいことでしょ?この時間をコツコツ積み重ねることが内面に及ぼす効果は計り知れません。

なので、これでいいんです。
機会があるたびに、内観作業を地道に続けてみてください。
機が熟したとき、自ずと扉は開かれると思います。

記憶がフワッと浮き上がってくる

私の場合は、出てきました。

・・・そう、が。

上で、『”今生の最初の体験(=フラグが立った体験)”を探る』と書きましたが、私のこのケースの場合は、父という存在そのものがドーンとイメージとして浮かんできた感じです。

そういえば父、周囲にめっちゃ迷惑掛けてた人だったわ!
・・・と思い出す。
(※↑↑↑ここでようやく、親の≪毒(=向き合いの材料)≫の受け取りタイムの到来)

確かに私、父の娘として生まれたことで、日本人の子どもとしては比較的ハードモードっぽい体験をいっぱいしました。

たとえば、
父が見栄張って、返済能力無いのに他人の連帯保証人になり、案の定逃げられて、なんかしらんけど暴走族みたいなのに家の周りを取り囲まれて煽られたり。
(夜、暴走族バイクのライトで照らされた赤やら青の明かりが台所の窓から差し込んできて、音もブオンブオンってすごくて怖かった。小学低学年の頃。今でも忘れられない思い出。)

その後しばらくして、突然スーツ着た知らないおじさんたちが家に上がり込んできて、赤い紙をバーッと家中の家具に貼って回って、家財道具差し押さえられたり。
(債権者に訴えられて物件差し押さえられたんだろうな・・・母と2人で呆然とその様子を眺めてた記憶。)

他には馬に乗った巨大な戦士の銅像や、何に使うかわからん機械などの産業廃棄物を自宅にトラックいっぱい持ち帰って、家や前の道がゴミだらけになってしまったり。
(誰かに家を知られるのが常に恥ずかしかったし、父は家族のことなんて何にも考えてないんだな、と悲しくなった)

初めから守れるわけない期限で約束しては、自営の取引先に多大なる迷惑を掛けるのはもはや日常茶飯事だったな。いつも請求、取り立て、催促の電話が鳴ってた。
(両親がいつも居留守を使うため、子どもの私が代わりに「今いません」と嘘をついて対応してた)

挙句の果てには、自営が借金で首が回らなくなり、本人なりに何とかしようとして、騙されてわけわからん詐欺案件の片棒を担がされたこともあった。私が異変に気づいて親戚の叔父さんに相談し、警察にも相談し、本人は詐欺だと無自覚だったしはじめてのことということで無罪放免されたけど、あれは最悪だった。詐欺だって言ってんのに、「余計なことしやがって」って逆切れしてきたからね。

その後は当然ながら破産に至り、一家で夜逃げ。後始末は全て連帯保証人になってもらってたその親戚の叔父さんに丸投げして、緊急避難する仮住まいまで用意してもらったのに、これも「余計なことしやがって」って、逆切れしてたな。

他にも出てくる出てくる。
年端もいかない子ども時代からの記憶いっぱいに溢れ出す、ハード寄りな体験がわんさか。

約束は守らない。借りたものは返さない。
ヤの人とトラブルになったこともあった。

そんなことある!?っていうような、あんな体験、こんな体験。るるるる~

「人に迷惑ばっかり掛けて、この人なんで生きてられんの??もう、娘の私のほうが恥ずかしいやら罪悪感やらで押しつぶされそう。いっそ、消えてしまいたい・・・」

私、そんなこと思いながら、何もできずにただ彼に人生を引きずり回される感覚で、父を憎み蔑みながら、不安しかない日々を生きてました・・・・。

底知れぬ悲しみ。
無力感。
「いい加減にしてよ・・・」と絞り出すような感覚。

・・・はいこれ、どう考えても、ビンゴですわ。

分析しますよ

さて、これで価値観の出どころが判明しました。

次にやるのは、自分や周りのことなどを客観的に観て、事実と思い込みとを仕分けしつつ、思い込みを解除していく作業です。

意識を変容させていくためには、ここが一番重要。

(この作業は本来は内観の意識のまま、静かにゆっくり多角的に熟考していくんですが、いつもの超長文病がすでに暴走状態なので、要点だけ箇条書きにして書きます。)

まずは私自身について

【内観を通して気づいた発見】

  1. 父の人生の煽りを受けただけなのに、なぜか私自身が居心地の悪さや引け目、恥や、罪悪感を感じていた
  2. 周りに迷惑を掛けていたのは父であって、私ではなかった
  3. 無力感を感じていたが、意外と当時の自分にできる最善を生きていた(親戚のおじさんに相談するなど)

こんな感じの認知の偏りがあったことに気づきました。

思い込みを解除しますよ

これらの思い込みを解除するには、内観の中で「それって本当にそうなの?」と、自分に問いかけていきながら、事実とそれ以外とを明確にしていきます。

まず簡単なところからいうと、3の無力感については、≪自分は無力だと感じている≫だけであって、事実とはかけ離れているケースも多々あるわけです。

なので、『本当に私は無力なのか?』と自分の深いところに問いかけて、よーく考えてみると、事実はそうではないということに気づいたりします。

幼少期に形成された価値観・思い込みって、基本的に根拠がないことが多いので。

私の場合、幼いころから父の人生に巻き込まれ過ぎたため、『私には状況を打開する力がなく、無力な存在だ』と思い込んでいたみたいですけど、内観の中で静かに自分を振り返ってみると、父の詐欺案件片足突っ込み時(当時私20歳頃)には、必死に六法全書を開いて詐欺だと見抜き、すぐ叔父さんに電話で助けを求めてたわけですよ。

決して無力ではなく、当時の私としては最善の働き。むしろギリギリのところで、家族を守るために底力を発揮していたのでは?という観方に変わりました。

それにこれだけ環境が不安定で危機的状況の連続だったのに、非行にも走らず自暴自棄にもならず命を絶つこともなく辛酸舐めつつも生きてこられたということは、自分が思ってる以上に強かったんだろうな・・・とね。こうして生き延びてるだけで、もうなんか、私すごくない??とあらためて実感したわけです。

『あれ、どうやら私は無力ではないみたい』

既存の価値観とは違う、↑↑↑こんな感じの感覚が自然に湧き上がってきたら、認知が修正されたということです。

新しい視点を1GET。

歪んだ価値観が最後に行き着く、自己存在の否定

続いて1、2の思い込みです。

思い込みの1、2から観えてくること。
皆さん気づきました?

これ、私、

自分は迷惑な存在だ

という錯覚に陥ってしまっているんです。

一連の体験での、私にとっての事実は、
『父の荒ぶる人生の煽りを受けた』ですよね。

私自身はそんなに重大な迷惑を周りに掛けたわけではありません。
子どもだったし。いわゆる”いい子”だったし。

それなのになぜか私、『迷惑掛けて、しかも感謝するどころか逆切れして、なんて恥ずかしい人なんだ。申し訳なさすぎて、いっそ私のほうが消えてしまいたい』と、父を責める気持ちが、途中から自分へと向いてるんですよ。

『申し訳なさすぎて、いっそ私のほうが消えてしまいたい』と、罪悪感を使って自己存在を世界から滅そうとしてる。

完全に父の所業を無意識に自分のものとして、自分の人生に引き入れてしまってます。

父の娘である”私”という存在も、周りからすると十分に迷惑な存在に違いないと、無意識で決めつけてしまっていたわけです。

そういう思いが心の奥深くにあったからこそ、「私は迷惑な存在なんだから、絶対人に迷惑を掛けちゃダメなんだ!!!」と強く強く自分を戒め、自分を『人は(=私は)周りに迷惑を掛けるべきではない』という価値観でガチガチに縛りつけてきたんですよね。

自分が迷惑な存在という前提ありきの、この価値観でした。

しかも、自分を迷惑な存在だと否定し続けることで、この価値観を絶対的なものとして強化し、絶対その枠から出ないようにして自分を守るという、めっちゃ捻くれたやり方。

そして、だからこそ、周りを気にする様子もなく、自由に?迷惑行為をする人に対して強烈な怒りが湧いてたんだなーと。

「私は人に迷惑掛けないように、こんなにも神経すり減らして生きてんのに、どーしてあんたは人に迷惑かけておいて、そんなに平然としてられるわけ!?」

・・・と、自分自身には到底許可できない≪迷惑掛けて生きる≫を簡単に己に許しちゃってる人が、許せない。そんな理屈。

それともうひとつは、迷惑行為する人が現れるたびに、”消してしまいたい”ほど自分は迷惑な存在だということを無意識で思い出しちゃうってのもあるかも。

自己存在が揺るがされるような感覚ってのは、無意識のエゴちゃんからすると命の危機なんですよ。実際私、「消えてしまいたい」とか思っちゃってるから。

だからそんな思いを抱かなくて済むよう、全力で怒りを放出して周りを責めることで、感じたくない感覚から逃げていたんですよね。

要はやっぱり、自分の心を守っていたといえるでしょう。

つまり結局は全部、自己都合だったんだな・・・と気づきました。

正義ぶってたのは、自己都合ってのを自覚しないで済むために、最も都合がいいから。

自分を守りたかった。
もうあの頃のような苦しい思い、しないで済むように。

願いはただ、それだけだったんですよね。

私は本当に迷惑な存在なのか?

次は、無力感の時と同じように、「それって本当にそうなの?」と自分に深く問いかけて、思い込みを解除します。

すると、やっぱり、どう考えても事実じゃないわけです笑

逆に『自分が迷惑な存在だ』という根拠を探してみたけど、具体的に出てこない。

そりゃそうでしょーよ。
私は父とは、肉体次元では内的特質も纏ってる人格も違うし、今生の課題も学びの段階も違う存在なんだから。

ここで父に埋没して同一化してしまっていた意識を、グイッと父から引き剥がす、と。

父の所業の結果を無意識に引き受けようとしていたことにも気づいてしまえば、「なんで私が引き受けなきゃならんのだ」と目が覚めます。

父のカルマは、彼自身がいずれ清算するので、放置でOK。

他はなんかある?
自分を世界から消すほどの理由、私にある??
いや、特に無いわ。

『やっぱり私、迷惑な存在じゃなさそう』

そう自然に思えたら、思い込み解除完了です。

新しい視点、もうひとつGET。

他にもこんな発見があったよ

【周囲の環境についての発見】

  • 当時はつらすぎて、神なんていない!世界は敵だ!と思いがちな人生だったけど、実はなんだかんだで要所要所、周囲からきちんと助けが入っていたっぽい

→ 親から守られた実感は当時あんまり無かったけど、もっと大きな流れの中で、大きな何かに、私、守られていたのかもしれないなぁと、なんとな~く感じました。今、ちゃんと生きてるのがその証。でも助けが入るのはいつもギリギリ、瀬戸際なんだよな・・・厳しいw

 

【価値観についての発見】

  • 環境に対する人生の選択(順応 or 服従 or 反発)がある中で、父を反面教師とする”反発”の道を自ら選び取った結果が、この価値観だった
  • この価値観自体は過剰すぎると厄介だが、現実的な社会生活を調和的に送るうえでは役立っている面もあるかも

→ 父を見て育ち、「私も周りに迷惑掛けていいんだ~」と順応的な選択をしなかった自分は、今考えると、なかなか気骨のある意識の持ち主だったかもしれません。その結果苦しい思いもすることになりましたけど、結果的にはそれほど悪くはない選択だったような気がしました。だってやっぱり私は、騒音主にはなりたくないし、人に自分の仕事を平然と押しつけるような人間ではいたくないから。

二極を超えたところから、あらためて

ここからが、魂次元の観方のお話です。
相反する二極を超えて、良いでも悪いでもなく、迷惑でも迷惑じゃないでもない、体験の本質を観ていきます。

前回の記事で書きましたけど、一番押さえるべきところは、『私(魂)はこの体験を通して、自分の何を知りたいんだろう?』です。混乱したら必ずここに立ち返ります。

なぜならこれが魂の”初心”だから、です。

魂が世界を体験する目的は、≪私とは何か≫を知るためです。自己存在を知りたいんです。そのために全ては在ります。世界は全て、あなたのために。

なので、初心忘れるべからずで、いきましょう。

自分の何を知りたいの?

はいでは、父の娘として生まれ、一連の体験を通して、私は自分の何を知りたいんでしょうか?内観作業の続きです。

上述したように、静かに自分の内側に静かに聞いていきます。答えが自ずと浮かんでくるのを、待ちます・・・・・。

『必要な体験』
『人間の苦しみの原因となる愚かさを総ざらい』
『今の流れへと向かうため』

ざっくり、そんな感じの感覚が浮かんできました。

ですか~・・・。
だよね、わかってたわ。

父がくれた、自分を知るための材料

内観中、これまでの体験を振り返り実感したことは、私は父を通して、≪人間≫の生々しさをとことん観たんだなってことでした。

人に騙され、利用され。
視野が狭くなり、自分がわからなくなり。
利己的で、自分勝手で、周りのせいにして。
苦しみの中でもがきながら、同じように苦しむ私に対して「人生は苦しいもんだ。苦しめ!もっと苦しめ!」って開き直って言い放ち。
救われたいって思ってるのに、自分をみつめようともせず、同じ過ちを繰り返す。

そんな父。

それでも私は、彼が彼なりの最善を生きようとしていたことを、どこかでわかってました。本当に一生懸命、命を削って生きてた。それだけは言える。そばで見てきたから。

ただ、知らないだけなんですよね。自分のことも、本当の幸せも、どう生きるべきかも、なぜ生きるのかも、全く何も知らない。だから迷い、苦しむ。

”人間”なるものの凝縮版。
それが私にとっての父でした。

そしてそんな父を通して、私自身も≪人間≫を凝縮体験したように思います。親を否定し、自分を否定し、自分が全くわからなくなり、人間不信になり、世界は敵だと思うようになり、苦しみの中で生きる希望を見いだせなくなりました。

幸せは遠いところにあって、どうやっても手に入らないものだと思うようになりました。父と同じように。

まさに私も、”人間”なるものを濃く深く、生々しく体験したように思います。

でも私は、きっとそれを体験したかった。
真の自分を忘れ去り、この世界に意識をどっぷりと埋没させて、迷い苦しみを味わい尽くしたかった。

この人生の出発点が苦しみだったからこそ、私は「ここから抜け出したい!!」と心底思えたような気がします。

私はどうして生まれてきたの?
私はどうして生きなきゃいけないの?
私は何のために存在してるの?

・・・私って何なの?

魂の目的そのものである、存在に対するこの問いかけを子どもの頃から持てたのは、全て父が私に与えてくれた体験のおかげです。

そして現在は、この問いの本質的意味を、自分なりに理解しつつある段階。

この流れに入ることそのものが、父という存在無しにはあり得なかったことです。だって今、過去の体験が無ければよかったって、全く思えないですもん。ホントに全部、欠かせない出来事だったって、今はわかる。

私が知りたかったこと

ではあらためて、
・・・この体験を通して、自分の何を知りたかったか?

おそらく私は『≪私とは何か≫その答えを求める存在(=魂)なんだ』ということを知りたかったんじゃないかな。

私って何だろう?

私はこの問いへ、父を通して引きずられるように、導かれました。

『本当の自分が全くわからない』という暗闇に放り込まれなければ、本当の自分を知りたいという願いは絶対に生まれなかったと思うんです。

願いが生まれたからこそ、自分を知るための試行錯誤が始まったわけですから。

だから私にとって父は、彼の人生を溢れ出すほどの苦しみで満たしてまでして、私を”今の私”へと導いた、そんな存在です。

こうなってくると、父を迷惑ばっかりの許しがたい存在とは評しがたく・・・。

もはやその迷惑行為だって、今となっては私が自分を知るための内観の材料になってしまっているわけで・・・。

もう、どう考えても、父の存在自体が≪愛≫そのものとしか思えない。

そういう感覚に至ってしまいました。

古い価値観に対する日々の向き合い作業が今、はじまる

さてさて。
内観作業が終わり、認知を修正したとしても、終わりじゃないですよ。
古い価値観への引き戻し、揺り返しが起こってきます。

そりゃー≪心≫という、常に外側に引きずられ揺さぶられる機能を標準装備している私たちですから!当然です。

変化を嫌うエゴちゃんは、心を守るためにルーチンワークを断固変える気はないわけで、相変わらず怒りを創り出しては「あいつをメッタメタにやっつけちゃえぇ」と煽り立ててきます。

でも、そんな自分に失望することはないですよ。
そもそも人間って、そういう機能・構造なんです。
(ココはインド哲学の考え)

いくら認知が変わったって自我意識は健在です。しかもカリ・ユガの世界観は相変わらず。周りはみんな、自分を見失ってる人ばっかり。そんな中で生きてれば、塩揉みくらいされますって。

じゃ、どうしたらいいか?といいますと、そうなるたびに、内観作業を思い出して、自分で自分を再教育していくんです。

私の場合だと、たとえば隣人が迷惑行為をしてきたとして、イラァ・・・となったとして、その時ふと、「あ、そういえば、この怒りって、自分を守るために創ってたヤツだったわ」と気づきます。

この気づきこそが内観の成果です。

で、

本当に私って迷惑な存在だったかい?
本当に私には何の力も無いのかい?

と自分の心の奥深いところに、やさしく聞いてあげます。
(専属セラピストモード発動)

すると、ちゃんと認知が修正された答えが内側から感覚として返ってきますから。

すかさずその感覚を拾い上げて、

「そう、ちがったね。私は迷惑な存在じゃなかったんだった。それに何かあったら自分で対処できるんだった。めちゃ賢いし、自分が思ってるより強いから。大丈夫。」

ついでに自画自賛もやっとく。
自己肯定レンガを新たに積み上げて、脆かった自己存在の土台を自分の力で再構築する、心の土木建築作業。

ここらへんは、インナーチャイルドの取り扱いと同じですね。

魂次元まで視点を引き上げて調理完了

で、ここから視点を引き上げて魂次元の観方をしていきます。

「あ、そういえば、お父さんって迷惑行為を通して私に体験を与えてくれた≪愛≫の存在だったわ」と、内観で感じた感覚を思い出します。

じゃあもしかして隣の人も、私の心の再教育及び土木建築作業を滞りなく遂行していくために、わざわざ一肌脱いで体験させてくれてる?そういうこと???

と、自分に聞いてみます。
(父親に対する新しい視点を、取り巻く世界に対して適用してます)

すると、モヤァ・・・と、受け入れがたい感覚が湧いてくることもあれば(笑)、調子が良ければ感謝の気持ちが湧いてくることもあります。

どちらにせよ、二極を超えたところに体験の本質があることを健在意識上でしっかり認識して、この体験(材料)を使った調理は完了。もはや隣人にこれ以上の用はないので、出来事はスルーでOK。

今回も自分の内面と向き合えて、「また少し浄化されたねぇ、よかったねぇ」と、喜んでおきましょう。

自分に対して誠実に向き合うことが大切

内観も、向き合い作業も、完璧にやろうと思う必要はありません。

というか、完璧って何ぞや?という話です。

私たちは人間次元でどうあろうと、魂次元では常に最高最善を生きてます。だから、自分に対して誠実に向き合ったなら、それこそがその瞬間の最高最善なんだと、自分と人生の大いなる流れを信じて一歩ずつ進んでいけばいいんじゃないでしょうか。

魂の目的(=自分を知る)に沿った生き方をしていれば矛盾なんて生じませんから、大丈夫ですよ。

終わりに

はい、これにて毒親シリーズは一旦(?)完了となります。

この記事の文字数は約13000字。全て読んだら30分位か??

いや~・・・とんでもないモンスター記事を生み出してしまった気がします。この地点まで読み切った猛者いたらホントすごいわ。

全て書き上げた後、あまりにも長すぎることに気づいたので、いっそ3分割でUPしたろーかと考えましたが、自分と向き合うにあたっての流れを断ち切りたくなかったので、まー仕方ないですよ(開き直り)。

自己満足で書いてますから、これでいいのだ。

さて。
このシリーズの着地点である”自分との向き合い”を≪毒親≫ネタからスタートした理由は、親という存在が自己存在の最重要基盤だからです。今生で着手予定の魂の課題は、概ね親との関係を活用して、幼少期に体験するように仕組まれています。

なので、親との課題を浄化していくことで、かなり自分自身が軽くなったと感じられると思います。

でも実は私自身は、記事の取っ掛かりは何でもよかったんです。それに迷いもしました。毒親概念に執着してたり、ビジネスにしている人にとっては結構刺激的なことも書かなきゃいけなくなっちゃうからね。

だけど、そこはやはり、≪毒親≫という皆さんにとって馴染み深い言葉から入ったほうが私も書きやすいし読む側も理解しやすいかなと思って、そうさせてもらいました。

結果、めまいがするほどの超長文シリーズになりました。

ではまた~