ひつじライオンの夜明け

ひつじライオンの夜明け

自分と本気で向き合い癒したい。本質を見極める目を養いたい。そんなあなたへ新たな視点をご提案。

許す・許さないという囚われから自由になる

ずっと許せないこと、ありますか?
ずっと許せない人、いますか?

まぁ人生いろいろですから、許せない体験に出くわす人も少なからずいるかもしれません。

管理人トヨも、ありますよ。
頭では手放してるつもりでも、心の深いところでは根に持っていたりしてね。

なにしろ粘着質なのでw

とはいえ、いや粘着質だからこそ、何かの出来事があって「許せん!!」ってなったときは、自分の内側のどこが引っ掛かってるのか、毎回内観して浄化作業をするようにはしています。
感情=自分を知るための材料という認識のため、材料の旬を逃さないためにもすぐ調理に取り掛かりたいタイプ ←)

内観はもはや趣味ww

そうするとあらビックリ。
過去に何度か扱ってきたキツめの体験がまた出てきたりして、「おぉ!私まだ握ってたんか!」となります。

私個人の感覚として、それがトラウマレベルの強烈な体験であるほど、最初のうちは小出しに出てくるんですよね。感情もあんまり感じられないです。

それを根気強く浄化していく作業をやっていくと、忘れた頃にドーンと大きな出来事が起こって、そこで大浄化祭りを促されます。

で、これでもう浄化完了したかなぁ?と思ってたら、今度は似たような出来事が何度か起こって、残ってた細かい部分の小さな浄化を促されるみたいな感じです。

最後の小さな浄化は、お試しの意味もあるかもしれない。本当に囚われから自分を自由にする気があるのか試されてるような??確認作業みたいなやつ。

そのお試しが起こるたびにこれまでとは違う≪真に望む選択≫を繰り返していくと、本当の意味で囚われから自由になっていく・・・だいたいこういう流れの浄化プロセスが用意されているように感じています。

まるで魂主催の矯正プログラムみたいなんですよね、ホントに。
私の場合は「スパルタかっ(# ゚Д゚)」て突っ込みたくなる程度には、スパルタ式プログラムでした。ハードすぎ、荒療治すぎなんじゃーーー・・・遠い目。

まぁいいや。
話を元に戻します。

いつもこんな感じで、内観しながら「許せん!!」という感情と向き合っていくんですが、実は私の場合、

浄化=許す というふうには捉えていません。

許すことを目指して内観作業をやっているのではなく。

内観するときに探しているのはいつも、許す⇔許さないという相反する気持ちを超えたところにある物事の『本質』です。

上でしれっと『囚われ』と書いたんですけど、結局『許す』も『許さない』も、どっちも意識の囚われに変わりはないんですよ。

許そうとすることも苦しみだし、許さないでいることも苦しみ。

どっちも同じ。
ただの相反する二極でしかありません。

このブログでは何度もお伝えしてますけど、相反する二極はどちらも本質ではありません。相対的で常に変化するものに真実はないんです。

なので、どっちにも傾かないように気をつけています。

あ、もちろんエゴちゃん(心/思考/マインド)的には、『許す』を選んで号泣してスッキリしたい欲はあるんですよ。でもそれだと本当の意味での解放にはならないから・・・。

マインドの次元でいろいろ扱ったとしても、結局マインドの枠を超えることは無いと言いますか。感情的に号泣すると気持ちいいし、解放されたーという一時的な快感も得られるんですけどね。

私の場合、二極どちらを選んでも真の解放にはならないことを知識として知ってしまっている以上仕方ない。観念して『許す』も『許さない』も選ばずに、起こった出来事を魂視点(=遠くて高くて長い目)でひたすら観ていく作業を粛々と行うしかないわけですよ( ;∀;) ヒィー

要は、感情は内観の手掛かりとしては使うけど、感情を感じることを目的にはしない!のです。感情はエゴちゃんがその都度ただの反応として創り出してるもので、何かあるたびにあっという間に移り変わります。だから本質的原因じゃないってことが言いたかった、うん。

・・・というわけで。
内観作業で観ていくポイントは

  • 自分の内側のどこが引っ掛かって感情が反応しているのか?
  • 私という存在はこの出来事を通して、自分の何を知りたかったのか?

ここらへんですかね。
自分の内側に深く潜って探していきます。

そうして本当に気づきたかったことに気づければ、『許す』と『許さない』どちらを選ぼうと、実はその選択自体にはあんまり意味がなかったんじゃん!という結論に至ります。

本当に観たかったのはそこじゃなく、この体験を通して自分を知りたかっただけだったのね、ってわかります。

ここまでくると、対立する二極のあいだで揺れ動く葛藤(許す⇔許せない)から本当の意味で解放されて、これまでにないくらい軽~くなって、ラク~になります。

その結果、許せなかった出来事自体への執着が無くなって、その出来事は『ただの出来事』になります。

怨念の種が枯れ果てるわけです(コワクナイヨ)。

もちろん感情は人間の機能として死ぬまでついて回りますから、「許せない!」は湧いてきますよ。でも、そんなに執着することなくスルスルと流すことができるようになります。

すでに気づいている本質に立ち帰って、速やかに自分を再確認して、おわり。

粘着質な私でも、怨念(コワクナイヨ)を持ち続けることができなくなってきますw

こういうことが体験できるから、本質につながるのってめっちゃ面白いんです。

あーこれを世界中の人々の趣味のひとつに加えてほしい☆

『趣味:読書、本質につながること』

とか、履歴書に就活生が当たり前に書く世界線に飛んで行きたい(大真面目)。

ではまたそのうちに~\(^o^)/