ひつじライオンの夜明け

ひつじライオンの夜明け

自分と本気で向き合い癒したい。本質を見極める目を養いたい。そんなあなたへ新たな視点をご提案。

親から与えられた影響を材料にして魂の課題を知り、真の自分を知る

先月末、職場のみんなコロナになったのに、私だけ無事でした。強靭な免疫力を持つ予感が止まらなかった管理人トヨでございます。

でもその後、帰省してきた甥っ子ちゃん(0歳)のウィルス性気管支炎を、家族で私だけが貰い受けてひどい目にあったので、強靭な免疫力を持つという自己像は束の間の夢となり、人生の儚さをあらためて知ることとなりました。

現在もまだ、鼻・喉の辺りが大変けしからん感じです。

さて、今回のお話は、魂視点の観方について「そういう観方もあるのかも・・・」と、一旦足(心)を止めてくださった方に向けて書いてみようと思います。今後のご自身との向き合いに、なにかしら参考にして頂けると幸いです。

あ、毎回しつこいですけど、以下はすべて、前回記事を読まないと意味不明なので、先にそっちを読んでから、ここに戻ってきてください。

↓こちらからどうぞ。

使えるもんは便利に使うべし

さて、前回は親子関係を魂の視点から観てみましたね。

魂次元から観ると、親の”毒”が、全く違う観え方になりますよ、という話でした。愛・憎という正反対の二極的な縛りから意識をぐいっと引き上げて、『魂の真の目的』という観点から親子関係の意味を捉え直してみれば、親という存在の役割が、自ずと観えてきます。

とはいえ、≪魂≫という、あるかどうかさえよくわからないものに抵抗感を覚える人もいると思います。ごもっとも。

まぁ、この点については、ちょっと乱暴な言い方をしますけど、私は個人的に、魂とか神様とか輪廻転生とか、こういう掴みどころのないぼんやりした概念は、便利に使っちゃえばいいと思ってるタイプです。

やっぱりねぇ・・・物質次元のガチガチした世界観に囚われた人間の意識を、同じ物質次元の概念だけを使ってグイッと引き上げるのは、難易度高すぎなんですよね。無理ゲーってやつです。

だって、執着でガチガチになってしまった心を使って、執着心を解き放つこと、できると思います??

これ、めちゃ難しいですよ。

執着心いっぱい、一切心の余裕が無い人に、自分を冷静に観察せよ!なんて、日ごろから客観視の訓練をガッツリやってない限り、なかなかできるもんじゃありません。
ていうか、無理でしょ。無理ゲーでしょ。

気づかなきゃ、人生は変わらない

私たち≪ひつじライオン(=自分をひつじだと思い込んでいるライオン)≫が意識を制限している柵から脱出するためには

  1. 自分が柵に囚われていることに気づき
  2. 柵の外にも”世界”が広がっていることを知り
  3. どうして自分はこの柵を飛び越えられないんだろう?どうやったらこの柵を飛び越えられるんだろう?って悩み始め
  4. 自分と柵を客観的に観て、囚われの本当の原因に気づく
    ・・・・・・・・・
    ・・・・・・・・・
    ・・・・・・・・・

・・・こんな感じのプロセスが必要になります。

なのでそもそも論として、柵があることに全く意識が向かなければ、まさか自分が柵によって囚われていることになんて、気づくことさえありません。

現に人間って、ほぼそんな感じです。
みんな≪ひつじライオン≫です。

気づきを得ていかなければ自分や人生は変わりません。気づかなければ、同じところを延々とグルグルしちゃうだけです。

つまり、本気で自分を変えたい!人生を変えたい!って願うなら、『自分や物事を客観的に眺める視点』『既存のものの捉え方とは全く異なる別の捉え方』がどうしても必要なんです。

その視点を持つための手段のひとつとして、魂とか神様とか宇宙などの、より精妙で高くて広い視点を取り入れてみると、グッと意識化範囲が拡張します。

大きな視点を意識することで、より高いところから自分を冷静に眺めることができるようになるので、自分と向き合いやすくなります。

てなわけで、特に目に見えない概念に対して嫌悪感を持ってるとかじゃなければ、心の制限を解き放つのに、とっても便利なんじゃないかなぁと思ってます。

何がいいって、特定の宗教とかに入らなくても手軽に取り入れられるところ。

まぁ、私の場合は家系的なもの、プラス、この世界に持ってきた特質のおかげで昔からやけに感覚が鋭かったので、目に見えない世界のアレコレに対して普通に受け入れてきたってのもあるし、ヨガを学び始めてからは、聖典中に当然のごとく出てくるんで、もはや意識に深く浸透しちゃって、何の違和感も無くなってしまってますけどね。

と、いうわけで、『魂から観た自分』という視点を、便利に使えるようになっていくと、今後かなり客観視がしやすくなると思います。オススメ。

親子関係を活用してカルマを浄化する

本題です。
前回、『親の存在自体が愛』に思えるよって、書きました。

彼らは、自らの人生を賭して、”毒”を持ったまま、私たちの気づきのために現れてくれている奉仕の存在だ、と。

そう。
親が、そういう存在だとするならば!ですよ。
私は同時に、こんな風にも思っちゃうんですよね。

『だったらこちらは、彼らが見せてくれているその≪毒≫を最大限活用しなきゃ、もったいないやん!!』と。

だってせっかく、くれるんだからさ、毒。
使ったほうがよくないかい??

ここでも、使えるもんは便利に使うべし、の心です。

彼らが差し出す≪毒≫・・・つまり、「与えられた影響」という材料を活用して、自分が過去世から積み重ね、今生まで持ち越してきている魂の課題に気づき、向き合い、浄化していく作業に取り組むこと。

これが、私たちにできることです。

魂視点では、ここまでやって、ようやく肉体的な親子関係は報われ、カルマは昇華されます。もはや、そのために親子になったと言ってもいいくらい。

二極次元を超えたところの親子関係の本質はここにあります。

もちろん魂的には、愛憎コネコネして苦悩しつつ『カワイソウナ ワタシ』を味わい尽くすのも、楽しい遊びではあるんですよ。なので、飽き飽きするまで、やればいいと思うんです。

そして、「もう十分!!!」と心底思えたなら。

その時こそ、親子関係への観方を「愛してくれない・・・」「認めてくれない・・・」という『愛憎の視点』から、「私(=魂)はこの親から、自分の≪何≫を知りたいんだろう・・・」という『気づきの視点』にシフトチェンジするんです。

この視点の切り替えができてこそ、二極の苦しみの世界という柵から抜け出すための第一歩を経験した、ということです。

いやぁ、めでたい!
新しい自分への輝かしい第一歩、おめでとうございます。

本当の意味で、親がお役目終了するとき

実は、「気づきを得よう!」と、本気で意識を切り替えた時点で、親という存在自体には、あまり意味はありません。

≪親の毒≫イコール≪気づきの材料≫なんだと気づいて材料を受け取ったら、そこで親の役目は終了。料理するのは私たち自身の仕事です。

親は関係ない。

そもそも親が子どものカルマを浄化することなんて不可能でしょ。それは完全なる越権行為。うっかり台所に立ち入らせたら混乱するだけなので、招き入れるのはやめておいたほうがいいと思います。

たとえ『親は関係ない』という言葉にムカァッ!!となったとしても。

自分で出来ます。
魂が、それをやりたいんだから。
やるために生まれてきたんだから。

これが本当の自立への道ね。
勇気出してこ。

私とは何?

「私(=魂)はこの親から、自分の≪何≫を知りたいんだろう・・・」と、上で書きました。

そう、魂は、自分を知りたいんです。

つまりこの世界のすべての体験と気づきは、究極的には『私とは何?』というただ一点に集約されていきます。

因みにインド哲学では、なぜ人間に、煩悩の原因となる”自我意識”という厄介な機能が付与されているかというと、この『私とは何?』の答えにたどり着くために必要だからだと云われています。

悟りに至る最終段階で、それまで悟りの邪魔ばかりしていた自我意識が、最後の最後、浄化によってものすごく純粋な状態となり、理智の最高の働き(識別の力)も合わさって『私とは〇〇だ』という究極的な気づきにたどり着いたとき、解脱に至るんだそうです。

人間は自我意識があるために「私の・・・」という所有欲が生まれ、所有欲があるから執着が生まれ、執着が苦しみを生むわけですが、それでも最終的に人間を悟りに導くのもまた、自我意識の機能であるという・・・。壮大すぎて眩暈がしそうなほど、何一つ無駄なものもない完璧な仕組みが、私たち人間のシステムには組み込まれているというわけです。神やばい。

で、つまり何が言いたいかというと、私たちは『自分を知る』という究極的な使命をもって、この世界にいるんだってことなんですよ。

『私とは何?』という疑問は、命の大元からの、最も大切な問いかけです。自分を知ることは、魂にとって、最高の喜びなんです。

だから、その問いが湧いてきたら、スルーせずに向き合ってあげてほしいな、と思います。

私じゃないものは脱いでいく

とはいえ、いきなり『私とは何?』という疑問についてダイレクトな答えを求めることは難しいです。いくら頭で考えても、本質的な答えは出てこないと思います。

名前も肉体も住所も所属も価値観も、変化しちゃう一時的なものでしかないでしょ?これらは≪私≫に張り付いてるものではあるけど、≪私≫そのものではありません。

たとえば腕切り落としたって、≪私≫という存在に変化はないでしょ?腕は確かに肉体の一部ではあるけど、≪私≫そのものじゃない。ここまで切ると≪私≫じゃなくなる、とかハッキリ言えますか?

また、『私とはこんな人間だ(であるべきだ)』という自分の人格を形成している重要な価値観でさえ、何かしらのライフイベントで容易に変化したりしますよ。例えば戦争や災害など。自分だと思っていた自己像は、あまりにも簡単に揺らいでしまいます。

さてさて、では結局『私とは何?』

・・・難しい問いですよね。

だからまずは、日々の生活の中で湧いてくる感情を頼りにして、自分を纏っているものをひとつひとつ脱ぎ脱ぎしていく作業をやっていきます。

無意識に纏っている≪私だと思い込んできた私じゃないもの≫にしっかり気づいて、「これ私じゃなかったわ」と1枚ずつ脱いでいくんです。

ひつじの皮を脱ぎ脱ぎしていけば、やがてはライオンたる≪私≫が現れます。

私じゃないものを脱いでいったら、最後には本質そのもの、純然たる≪私≫が現れて輝きだす・・・そんな仕組みですね。

この、ひつじの皮を脱ぎ脱ぎする作業が、自分と向き合う作業ということになります。

自分と向き合うってどういうこと?

一言で自分と向き合うといっても、どうしたらいいか、よくわからないものですよね。当然です。意識(感覚器官)は外へ外へと向かう性質を持っているので、普段は自分と向き合うどころか、どんどん自分から離れていってしまっています。むしろ離れすぎて、自分を見失っている人がほとんどですから。

要は、み~んな、ひつじライオンなわけです。

だからとにかく、まずは意識を内へと方向転換させないといけません。これまで川の流れのままに流しそうめんみたいにツルツル流されていたものを、腹を決めて踏みとどまり、流れに逆らおうとすることが第一段階。

これが結構大変かも。

で、流れに逆らって源流へと踏み出すとき、とっても重要な綱の役割をするのが、『私とは何?』という根本的な疑問だと私は考えています。

この一筋の綱は”私”という本質へと続いているので、これを離さなければ、どんなに激しい逆流であっても、いつか必ず到達できる仕組みになっています。

で、自分と向き合うときも、この疑問から離れずにいれば、ごちゃごちゃした記憶や感情に引きずられずに、問題の本質だけを拾っていくことができるんですよ。

知りたくないですか?
≪私≫とは一体、何なのか?

なので、自分と向き合う中で混乱したときは、毎回ここに立ち返って「私(=魂)はこの親から、自分の≪何≫を知りたいんだろう・・・」と聞いてみることです。

更に付け加えると、親だけじゃなく、全てのことに「この出来事って自分の何を知りたくて起きたんだろう・・・」という視点を持つと、自己理解がめっちゃ加速していきます。出来事に対する向き合い方が変わってきます。だって全て、材料ですから。

やってるうちに、私とは何か、相変わらずわからないものの、以前よりはぼんやり観えてきます。輪郭がどこにあるかさえわからなかった自己存在が、な~んとなく、わかってくる感じ。

これは実践してみないとわからない感覚かもしれません。

 

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え!!?
やばくないですか。
終わらんかった・・・

これ、私、無理やり引き延ばしてるとかじゃ、決してないですからね。

いよいよ終わる終わる詐欺の様相を呈してきましたが、次こそ~!!!

次こそ終わり!!!たい。

次回へ続きます。