ひつじライオンの夜明け

ひつじライオンの夜明け

自分と本気で向き合い癒したい。本質を見極める目を養いたい。そんなあなたへ新たな視点をご提案。

親の愛が苦しい理由/親を否定しつつ執着し手放せない子どもの心理

こちらの記事は毒親をテーマにした続きものです。最初から読まないと意味がわからない内容になっています。お手数ですが、よろしければ以下のリンクから順にお読み頂きますようお願いします。

前回は、自分を親の被害者として生きることを自覚したうえで選択するか、それとも無自覚でいるか、そこにどんな影響があるのかについて書きました。今回は、親の愛について述べていきたいと思います。

よかったら読んでいってください。

魂の純粋な愛は心を通過すると変質する

・・・変質て(笑)
初っ端から見出しが不穏な感じですが(^^;)

でもこの仕組みを理解することは、愛に幻想を抱き、人間関係にいつも過剰な期待を抱いては失望を繰り返す私たちにとって、心を穏やかに保つうえででとっても意味のあることだと思ってるので・・・書きます、えぇ、書きますよ私は。

クレームは一切受け付けませんので、読みたくない方はここで静かにお引き取りくださいませ。自己責任でね。

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さて。
私たちは、≪私の≫親と思うからこそ執着します。

それはもちろん親も同じ。
≪私の≫子どもと思うからこそ、諸々ややこしくなるわけです。

そこにはまず、大前提として、≪私/I≫という圧倒的自我意識に基づく『所有欲』が意識の深いところに流れています。

『私の○○』

確かにそういう意識、私たち持ってますよね?

そして更には、その所有欲に基づく『支配・コントロール欲』も同時にあったりします。人間は基本的に、とにかく自分の思い通りにしたいんですよ。

◆自分の思い通りになっている時
⇒愛着・好き・楽・安心

◆自分の思い通りにならない時
 ⇒憎悪・嫌い・苦・不安

この二極化されたシンプルすぎる基準があらゆる場面で適応されます。当然親子関係にも。

でも、これまでの記事ですでに書きましたが、相反する二極は、そのどちらにも本質はありません。つまり、どっちに転んでも本当の愛じゃないってことです。

だって愛着も憎悪も、行きつくところはただの執着だから。執着は煩悩ですから、最終的には苦しみしか生まないんです(この点はインド哲学も仏教哲学も同じこと言ってますね)。

ほら、恋愛中はラブラブで、理想の彼氏彼女だ、運命の人だ、真実の愛だって信じてても、結婚して立場や状況が変わると、夫婦仲が険悪になったりするケースってあるじゃないですか。それで「あの人変わった。昔はこうじゃなかった。」って、相手の変化のせいにしちゃったりしてね。

でも本当は単に、自分の心が愛着から憎悪に変わっただけ。自分の都合(理想)に合っていると思い込んでいるときは愛着していて、自分の都合に合わなくなったら、憎悪へと。その正反対の二極を体験したに過ぎません。

真実の愛って何があっても絶対に変化しないんですよ。永遠不変ですから。

それはたとえ、あの頃はあんなに優しかった相手が、優しさのかけらもない言動を取るようになったとしても、です。もし自分が本当に真実の愛を相手に捧げているのであれば、その愛は未来永劫、何があっても変化するハズないんです。・・・ここ厳しいね。

つまり、自分の心が憎悪へと変化したということは、あの頃の『好き』という感情は、実は愛じゃなかった。愛着だった。真実の愛だと信じていたのは、最初からずっと、単に相手への執着だった・・・という、そんなお話。

いや、厳しすぎるだろー。
でもまぁ、愛着⇔憎悪の二極の転変を実際に生々しく体験したことのある人ならきっと、心のどこかではわかってるんじゃないかなーと思いますが・・・。

でも我ながらわかりやすい例え話だわ。恋愛結婚って、あらゆる人間関係の濃縮版だから、ホント気づきの宝庫なのよね。

はい、ちょっと脱線し過ぎたので、ひとまずここまでの話をまとめますと、まずは、変化する愛着・憎悪の二極の間には真実の愛はない、ということ。そして、私たちは基本的に自分の思い通りにしたいという願いを無意識に持っていて、自分の都合に合うか合わないかで瞬時に好き嫌いを判断し、その感情に基づいた反応を世界に現していますよ、ということです。

そして本題。
親子関係も同じ。親子どちらにも『自分の都合』に相手を従わせたいという無意識の欲が絡んでいるからこそ、執着(愛着⇔憎悪)になって、とても苦しいんですね。

あ、ここは勘違いしないで頂きたいところですが、意識の発露は間違いなく純粋な愛なんですよ。魂は純粋そのもの。そこから出た愛は、真実の愛以外の何ものでもありません。

でも残念ながら私たちは、その愛を純粋なまま現すことができない仕様なんです。

なぜなら人間だから。
みんな生来の毒持ちだから。

・・・心。
はい、コレですよ。
人間って、もれなくコレ、持ってるでしょ?
コレが、魂が放つ純粋な愛と世界との間に、必ず挟まる仕様になってるでしょ?

何か行為しようとすると、必ず感情や考えが間に挟まってくるわけですよ。だから魂の純粋な愛を、その愛のままに表に現せないんです。途中で変質し、歪んじゃう。

詳しく説明します。
魂は、肉体を纏うことで”人間”を体験します。人間には”心”という複雑かつ繊細な機能が標準装備でついていますよね。

インド哲学の考えで、心とは内的な心理器官と考えられていて、以下のような機能があるといわれています。

  • 意思(外的感覚を授受する器官)
  • 理智(認知・判断・識別・行動指令)
  • 我執(自我意識・エゴちゃん)
  • 記憶(体験に基づく潜在的な印象/過去世のも含む)

これらを総合的に≪心の働き≫と表したりします。

そして、魂がわざわざ肉体を持つ目的は≪体験≫と≪気づき≫を得るためです。心は、そんな魂の目的を果たすために欠かせない機能だったりします。だって、もし心がなかったら体験を求めようともしないし、気づきを得ることもできないからね。心って、悟りを得るうえで、とっても大切な機能だといえます(これもインド哲学の考え)。

でもその一方で、上述した通り、心があるゆえに、純粋な愛をそのまま世界に現すことがとっても難しい仕様になってしまっていることも事実。

例えば、鏡。
自分の本当の姿を鏡で観ようとしたとき、その鏡が汚れていたり歪んでいたら、本当の姿をありのままに観ることはできません。心も同じ。認知が歪んでいたら、ありのままの自分(魂/本質)を映し出せないです。

もうひとつ例えると、水面のさざ波。
水底に沈む宝石の輝きをありのまま観ようとしても、水面が波立っていたら、波の動きでゆらゆら歪められて、その輝きをありのままに観ることは不可能です。心はさざ波のように、常に外的要因に影響されて動いています。心がざわざわと動いている限り、その最奥にある魂の本質の輝きが、そのまま現れてくることは無いんです。

こんな感じで、過去の記憶と経験、感情、自我意識、欲、思い癖(認知)等、幾重にも重なるフィルター(=これこそが毒)で私たち人間の心は常に揺れ動いてしまっているので、純粋な愛はこのフィルターを通過する過程で、もののみごとに変質しちゃうんです。

変質した≪愛だった何か≫は、歪んだ形でしか現すことができません。それは時に過干渉となり、価値観の押し付けとなり、ネグレクトとなり、暴力行為にさえなってしまうこともあります。

「お前のため」って、親、言いがちでしょ?

多くの親はその言葉を吐く瞬間、本気でそう思ってる。暴力行為でさえ、しつけだと信じてやってる。信じ込んでる。

だって発露は≪純粋な愛≫だから、意識の出発地点では、確かに相手のためなんですよ。でも、現す段階で変質して、時に暴力さえに変わる。≪相手のため≫が、『私の○○』という所有欲と支配欲、感情や思い込み等のフィルターを通ることで、≪自分のため(自己都合)≫へと無意識ですり替わる。

思い通りにならないなら、力づくか、罰を与えるか、時には怒りの感情を使って何としてでもコントロールしようとしちゃう。

そしてその欲を抑えるのは、実はとっても難しい。なぜなら支配欲は、人間の五大煩悩の一つ(←ここはインド哲学の考え)である≪自我意識≫からきている欲だからです。そりゃあもう、めちゃくちゃ強烈ですよ。きちんと自覚して訓練しないと、簡単に制御できるものではありません。

こんな心の状態に自力で気づいて修正することができる親は・・・よっぽど客観視力と自己制御力が育っていて、自分で自分の意識をグイッと引き上げられる強さがない限り・・・親本人が自分の所業に悩んでいるとかじゃないと、難しいよね。無意識にただ生きてるだけじゃ、変わらない、きっと。

でもこれって、親に限ったことじゃないんですよ。人間みんな、自我意識に完全に飲み込まれ、迷妄(=マーヤー)の世界に丸ごと没入してる。自分が迷妄の世界にいることさえ気づくことができないのに、自分を客観的に観ることなんて更に難易度高し。

もはや、天から突然が降ってくるような衝撃的なライフイベントに遭遇して、強制的に意識を覚醒させるでもするしかない。

そうでもしなきゃ、人間はさながら眠ったまま生きているような意識状態だと言われています。

・・・寝ながら生きるって、ある意味器用だけどさ(*_*)

親の愛をあきらめないエゴちゃん

そして、自分の都合という視点でいえば、普段から親を否定してばかりいる子ども側も同じなんですよ。

だって、前回までの記事で説明した通り、≪毒親≫という概念に執着して親を否定し続けることで、自分と自分の人生と向き合わずに済むという潜在意識エゴちゃんの願いを見事に叶えているわけですから。

これって結局、自分の都合でしょ?まぁ、自分の都合に≪毒親≫という概念があまりにもぴったりフィットしがちなので、初手で陥りやすいところなんですけど・・・。

更に、それにプラスしてもうひとつ。
私たちには、親の愛への無意識の渇望があります。

毒親・・・毒親・・・って言って、親を否定する意識って、裏を返せば、激しく親の愛を渇望してるのと一緒なんですよ。親を全くあきらめてない。そこにはものすごい執念・執着があるわけです。

そりゃあそうです。本当に親への執着を断ち切っていて、自分で自分へ愛を注ぐことができ(=自立)、もはや親に愛を求める必要が無いという愛着・憎悪の二極を超える意識段階に至った人は、その言葉が自分に全くフィットしなくなるので、一切心惹かれなくなります。率直に言って、どうでもよくなる。

逆に、親への憎悪(=執着)があるってことは、まだ親の愛を求めてる、親をあきらめてない、ってことになりますよね。

深いところに、エゴちゃんの切ない願いがありますから。

間違っている親は罰せられるべきだ。
いつか過ちを思い知ればいい。
自分の過ちに気づかせるべきだ。
絶対親を許せない。

こ~んな感じの根深い意識をガッチリ握りしめておくことの、エゴちゃんの真の目的って何だと思います?・・・ってもう答え書いちゃってるんですけど(汗)

そう・・・

親をあきらめずに済む これです。

強い強いエゴちゃんの執着の目的は、自分の都合通りにいつか親が変わってくれること。

これがエゴちゃんの願い。
無意識の欲です。

いつか自分をわかってくれるんじゃないか
いつか自分を愛してくれるんじゃないか
いつか自分を理解してくれるんじゃないか
いつか自分を受け入れてくれるんじゃないか

・・・いつか、いつか、そういう日が、くるといいな。

満たされない想い。
渇望感。枯渇感。

ぽっかり空いた心の穴を、親に埋めてもらおうとしてる。もちろん無意識でね。

そう。無意識。
無意識で、あきらめなければ、いつか親が自分の理想(=都合)通りの親に変わってくれるんじゃないかという願いを持っているからこそ、親をギュっと握りしめて、執着を手放さずにいるんです。

だから、やっぱりこれも自分の都合。
自分の願い。自分の欲。
ここは親への執着を手放したくても手放せないでいる人にとっては、厳しいと感じるところだろうけど。

私たちって結局、親子関係を通して、それぞれの立場で、自己都合の押し付けというカルマを延々と体験してるんです。

相手が自分の思い通りになると幸せ、思い通りにならないと不幸。相手に自分の幸福を委ねる。これは他人軸の生き方です。

人間はこれを、気が済むまでやります。
これじゃあうまくいかない、真実から遠ざかるばかりだと気づいて、親への執着を手放そうと心底決意するまで、やります。人間だもの。やりたいんだもの。仕方ないよ。

親子で互いの毒を持ち寄り、その毒を混ぜ混ぜし合って、自分の魂の課題に沿った、愛憎の二極ドラマを創り上げる。そのために今生の縁を結んだ存在。親子。

いやぁ・・・親子関係とは、実に奥深いもんですなぁ(遠い目)。

これもひとえに、魂が、体験と、その体験から気づきを得るために仕組んだ、壮大なる毒の混ぜ混ぜ。

全ては『気づき』のため。

そして、自分が創ったドラマを≪完≫させるのは、これは絶対的に自分の仕事です。主役である本人が役を降りれば、そのドラマは終わり、です。

親を毒親だと嫌って安心しているうちは、まだまだドラマは終わりません。これはたとえ、親が死んだとしても、絶縁して疎遠になったとしても、です。

だって、このドラマは自分自身の内側で繰り広げられ続けているものだから。親じゃなく、自分が≪完≫させるしかない。自分で自分に「もうドラマ、降板していいよ、降りても私、大丈夫だよ」って伝えて、ぽっかり空いた心の穴を、内側から愛で満たしてあげて安心させてあげるしかないんです。

ここに取り組むためには、まずは親や自己存在、関係性の真実などについての認識を、自分に擦り込んだ思い込みという縛りから解き放ち、もっと意識の範囲を拡げて引き上げ、新たなイメージへと刷新する必要があります。

次回へ続きます。