ひつじライオンの夜明け

ひつじライオンの夜明け

自分と本気で向き合い癒したい。本質を見極める目を養いたい。そんなあなたへ新たな視点をご提案。

親から愛されないのは自分のせいじゃなく、親自身の心の毒が原因

はいーどうもどうも。
最近、鼻うがいにハマっている管理人トヨでございます。私にはなんと鼻の穴が2つもあるため、それに合わせて容器も2つです。使い分け大切。

しかし眠いぃぃぃぃぃぃ・・・
今、激烈な眠気と闘っております。
お蔭で変なテンションです。
さぁ、書いていくとしますか~

前回は、「本当の愛とは一体なんぞや!?」についてと、「宇宙の理に全力で反旗を翻し、母親を自分の理想通りに変えてやろうとした結果、管理人トヨに勃発したエネルギー枯渇問題」について書きました。今回はその続きですね。

エネルギー枯渇問題の発生

前回、親の毒浄化代行作業を無意識でやっちゃった結果、自分のエネルギーが枯渇したわ!っていう私の残念な体験談をお伝えしました。

実はこのエネルギー枯渇問題、私のように実際に代行作業をしなかったとしても発生するんです。

怒りであれ憎しみであれ、意識を親に向けるってことは、自分の貴重なエネルギーを親へ注ぎ続けてることにはなんら変わりありません。

インドの行者さん曰く、エネルギーは、意識した先へと流れていくからです。

(因みにインド哲学では生命エネルギーのことを≪プラーナ≫と言います。なんか聞いたことあるような??って人もいるかもですね。東洋では≪気≫のことかな?)

悩むと疲れるのは、意識のエネルギーが悩みの対象に向かって流出しているからです。親のことで悩むってことは、親に向けて自分の貴重なエネルギーを垂れ流ししているのと一緒です。

この点にいつも気づいている状態で、それでもどうしても親を変えたいと願うのであれば、それはもう、あなた自身が選び取った自分の課題として、とことん引き受けていけばいい。

でも無意識だったなら、それすっごい重いからやめておきましょう。

親の分まで背負わなくていいんですよ。さすがにオーバーワークです。人生は短くあっという間なので、自分の課題をこなすだけで精一杯だと思います。

自分に向き合う意識がエネルギー枯渇問題を救う

相手を変えようとするのはエネルギー枯渇問題を引き起こすので、私はあんまりオススメしないんですけど、自分を変える作業は結構オススメしてます。

エネルギーは意識する方向へ流れるとお伝えしました。

私の個人的な体感ですが、自分と向き合うために意識を≪内側≫に向けていく作業は、そこまでエネルギーが枯渇する感覚って無いんですよね。

それってある意味当然で、自分に意識を向けているわけですから、エネルギーは自分へと流れるってことで・・・要は、内側にエネルギーが循環し、保たれていることになります。

もちろん内観(←私は思考の届かない意識の深いところで熟考していく瞑想や、陰性感情をたどり、表面上の出来事の奥にあるパターン化した本質的原因を観ていく自己流のセルフインナーチャイルドセラピー?のようなものをよく行います)している間は深く深く自分の内面を探究していくので、それなりにエネルギーは消費しているんじゃないかな?とは思ってるんですけど・・・

その一方で、私が行っている内観では、紛失していたいつかの自分を拾い集めていくような感覚があって、何かを発見する(=気づきを得る)と、パパパパーンパーンパーンパーーーーンって一つレベルが上がって、HPが回復するような・・・。自分が愛おしくなるし、内側からあたたたかくなるような感覚もあったりします。あくまで個人的な感覚です。

なんでかはまだよくわからないんですけど、多分、魂次元の≪気づき≫を得るときって、本質としっかり繋がってるんじゃないかなーと。(※本当はいつでも繋がってるんですけど、私たちは日頃、本質を忘れ去った状態で生きていますから)

前回の記事でお伝えした通り、私たちの本質=愛 ですから、愛(無限エネルギー)に触れることで、HPが回復してるんじゃないかな~

・・・っていうか、こういうの、ゲームで例えていいものなのか。実際はもっと静かで深淵なものだと思います(;^ω^)

でもそう。
結局最終的に行きつくところは全て、愛なんですよ。
これ、別にキレイ事とかじゃなくて、実に生々しく、あきれるほどに愛なんだと思います。そんな気がします。うむ。

と、こんな感じで、エネルギー枯渇問題を解決したくば、外に意識を向けるのをさっさとやめて、自分に意識を集中させて毒の浄化に励んだほうがいいかもね!というお話でした。

私は断然こちらをオススメします。

親の課題は親自身が解決すべきこと

親との共依存関係にあって、境界線がうまく引けずに悩んでいる方なんかは、特に意識してもらえるといいなーと思うところなんですが・・・

親の課題と自分の課題をきちんと≪識別≫できるようになると、か~な~り~楽になるんじゃないかと考えています。

アドラー心理学でいうところの、『課題の分離』ね。

・・・あ、因みにちょっとややこしい話をしていいですか。話が逸れますが。

このブログでは心を上手に取り扱うための”ものの観方”について、インド哲学的な考え方をベースにしたご提案を行っていますが、私自身はこの場でインド哲学の専門的な智識を前面に出す必要は無く、ひとまずはそのエッセンスだけ伝われば十分だと思っています。なのであんまり専門用語などに頼らず、誰が読んでも理解できるように書いているつもりです。

そもそも私は個人的に、哲学の智識はあくまで自分を癒し自己探究するための手段であり、目的じゃないと考えているタイプです。なのでインド哲学の理論めいたことを、重箱の隅をつつくみたいに語るつもりは基本的に一切無いんです。学者じゃあるまいし。そして何より私、まだまだ勉強中の身ですしね。

けれど、これだけは先に言っておかねばやばい、ということがあることに今気づきました。私が今後も気持ちよく記事を書いていくために・・・。
それが以下の内容です。

仏教哲学とインド哲学における≪識別≫という言葉の捉え方について

『物事を見分ける』『区別する』という意味で使われる≪識別≫という言葉について、仏教哲学とインド哲学では全く違う捉え方をしています。

仏教では≪分別(ふんべつ)≫(←識別と同義)は自分と他人とを区別することから、我執(自分に対する執着)や我所執(所有欲)を生むことになるため、仏道の障り・煩悩の原因になるとされています。逆に自分と他人とを区別しない『無分別智』によって苦しみから逃れることができると説かれています。要は「自分と自分以外とを区別することはよくないよ」っていうのが仏教の考え方です。

それに対してインド哲学では自分(観照者)と対象物(被観照者)とを混同・同一視せず、“自分は対象物では無い”ことを見極める『識別智』は、煩悩から自分を解放する智慧だと教えられています。そして≪識別≫を極めたその先の先、究極の段階で、執着・自我意識が完全に消滅したときに自分と自分以外との区別が無くなり、二元性(二極の対立)を超えた永遠無限の”一”なるものを悟ると説かれています。要は「自分と自分以外とを区別していき、最後にたったひとつ残ったのが真実の自分だよ。その真実の自分に到達したとき、なーんだ全部自分だったんだと気づくよ。その気づきを得るために、自分と自分以外を混同せずにきちんと区別して見極める訓練をやっていこうよ」っていうのがインド哲学の考え方です。
(インド・ヴェーダーンタの不二一元論)

仏教とインド哲学、どちらも最終的には二極を超えて区別の無いところへ至ると思うんですけど、≪識別(分別)≫という言葉に対する捉え方が、仏教とインド哲学では全く正反対なので、熱心な仏教徒の方にとっては、このブログの内容は非常に受け入れがたいかもしれません。

私はインド哲学を学んでいるため、≪識別≫を使って自分と向き合い続けています。当然このブログも、≪識別≫は自分を解放するための智慧という認識の下に書いていきます。これからもめっちゃ重要なキーワードとしてたびたび登場すると思います。

私をインド哲学の道に導いてくださった師は常々「悟りへの道は人それぞれ、人の数だけある。違いに囚われて執着するな。最終的には同じところに行くんだから。」とおっしゃっていました。現に仏教からでもヨガからでも悟りに至る人はいるし、哲学なんて学ばなくても悟りを得る人だっています。

そういうわけなので、この違いについてはいろんな考え方がある中のひとつの考え方と捉えて頂き、気に入らない場合はこのブログを上手にスルーして頂けると助かります(^人^)

・・・さて、スッキリしたので話を戻しましょ。

親の課題と自分の課題とを≪識別≫する話です。

親の課題である毒(=認知の歪み、記憶、思い込み等)は、彼ら自身がいつの日か(今生か、はたまた来世か・・・)必ず自分で浄化することになっています。

わからせたいとか反省させたいとか、そういう私たちの想いとは関係ないところで、いずれ必ず彼らは自分と向き合うことになります。これは確定事項。(←ここはインド哲学の教え)

だからその流れを信頼して、「彼らが求めている気づきを、いつか得られますように」って、静かにそっと心の中で手を合わせて祈っとけばいいんです。

自分の都合通りにコントロールしようとするのをやめて、自分の苦しみをわからせようとするのも、過ちを知らしめようとするのもやめて、より大きな存在、魂レベルの壮大かつ完璧な流れに、親を丸ごと委ねてしまう。

祈って、流れを信じて、あとは宇宙に丸投げです。

親との関係において、許す⇔許せないの葛藤に苦しみ続ける人は多いと思います。でも本来この相反する二極の苦しみさえ私たちには不要だし、無意味です。丸投げに『許す』も『許せない』もありません。

制限された意識で思考機能をいくら酷使しても、答えなんて出るわけがないんですよ。親子関係の微細な魂次元の真実が、粗雑な肉体次元の脳の機能で判断できるわけがない。

魂次元では、親には親の≪毒浄化計画≫がちゃんと用意されてます。

そこにわざわざ人間レベルの低くて狭い意識でもって干渉するなんて、バカらしいと思いません?

(自分はやらかしといて!?って感じですけどね。いや体験して味わい尽くしたからこそ、声を大にして言いたいんです)

背負わない。
引き受けない。
引き入れない。

これがエネルギー枯渇問題を安易に引き起こさないコツです。

そして実は、こうやって宇宙に親を丸ごと委ねることは、自分の意思で親から手を放す、自立に向かう作業だったりします。

親を握りしめて放さないエゴちゃんのその手・・・心を、自由にしてあげるための作業ね。親の呪縛から自分の心を解放してあげられるのは、やっぱり自分なんですよ。

だってそうでしょ?
自分が親に執着したくて、してるんだから。

親がどうあろうと、関係無い。
わかってくれまいが、愛してくれまいが、それはあなたの問題じゃない。

わかることができない。
愛することができない。

これは親自身の内的問題であり、彼らが取り組むべき課題。

あなたが背負い込む必要のないこと。
あなたが引き受けて浄化してあげる必要のないこと。
彼ら自身で取り組むべきことであって、あなたの課題じゃない。

だから、あなたは自由になっていい。

あなたの課題は、あなたを自由にすることです。

「私があなたを理解するよ」
「私があなたを愛すよ」
「生まれてきてくれてありがとう」
「懸命に生きてくれてありがとう」

エゴちゃんにそう言ってあげられるのは、親じゃなくて、あなたです。だって、あなたの哀しみも苦しみも怒りも絶望も、その全てを知っているのは、あなただから。

あなたが覚悟を決めて、全力で自分を愛すんです。
内側の愛で、自分を満たしてあげるんです。

あなたの本質は、愛なんだから。
あるんだから、愛。

愛がないと錯覚しているエゴちゃんに、これでもか!と愛を伝えてあげましょう。

次回へ続きます。