ひつじライオンの夜明け

ひつじライオンの夜明け

自分と本気で向き合い癒したい。本質を見極める目を養いたい。そんなあなたへ新たな視点をご提案。

本当の愛とは何なのか/親を自分の思い通りに変えることはできる?

はい、お久しぶりです。管理人トヨでございます。家族内で生死を学ぶニューライフイベント発生中につき、ブログ更新がもっぱら滞っております。

物理的に忙しいのと、体力・精神力の消耗が激しくて、とにかく眠い。それでも少しずつ記事は書いていたので、まずはその分をアップしますね。

前回記事の終わりに、自分で自分に愛を注ぐことができる自立した自分になるためには、『まずは親や自己存在、関係性の真実などについての認識を、自分に擦り込んだ思い込みという縛りから解き放ち、もっと意識の範囲を拡げて引き上げ、新たなイメージへと刷新する必要がある』と書きました。

実は、これまでずっと書いてきた≪毒親≫についての記事は全て、この目的のために書いてきたものです。ひたすら思い込みを外し、意識を拡げてグイッと引き上げるための新たな視点をいろんな角度から、お伝えしてきました。

今回の記事もその続きです。意識を制限する檻をぶっ壊したい方、もう少しお付き合いください。

続きものなので、前回までの記事を読まれていない方は、以下からどうぞ。

無条件に愛されたいという願い

前回、親を嫌って否定することは、裏を返せば、激しく親の愛を渇望してることと同じという話をしました。

いつか自分の気持ちを理解してくれるんじゃないかという親への期待を捨てきれていないからこそ、潜在意識のエゴちゃんが、心の深いところでがんばって親への執着を手放さずに握りしめている状態です。

親をあきらめていないエゴちゃんがいるんでしたね。

そして、それは自我意識発の欲(親を自分の思う通りにしたいという自己都合の願い)からきています。

自分の理想通りに無条件に愛してもらいたいし、わかってもらいたいし、受け入れてもらいたい。本当はこうしてほしかった。こう言ってほしかったという理想のイメージが、確かにあるわけです。

これは≪自我意識≫が標準装備された人間なら誰もが抱く、とってもシンプルで、愛すべき自己都合の願いです。そう願うこと自体に、良いも悪いもありません。

本当の愛を知っているからこそ、執着する

更に深い話をすると、私たちは無条件に愛されたいと願い、愛を求め執着する生き物ですけど、それって実は、本当の愛とはどういうものか、すでに知っているからこその願いなんですよね。

真の愛を、意識の深いところで最初から知っているからこそ、「これは本当の愛じゃない」「自分は愛されてない」と感じるのであって、もし愛について一切知らなければ、愛について悩むことなんて、できないんですよ。

葛藤自体、湧いてきません。

では愛とは一体何なのか

実は、愛とは、存在そのもの。
つまり、自分自身の本質であり、大いなる意識、絶対意識、純粋意識、真実在、真我、神我・・・です。呼び方はいろいろですが。

たとえ言葉の表現は様々あろうとも、我々の本質こそが純粋意識であり、存在であり、愛である、といえます。

だから、本当の愛を得たければ、外側に向かって彷徨う感覚をグイッと自分に引き戻して、自分の本質に意識を向ける作業をひたすら行うのが一番手っ取り早かったりします。(←ここはインド哲学の教え)

外へ外へ・・・と愛を探し求めるほど、本質から遠ざかるので、愛(=自己の本質)がわからなくなりますね。

そうそう。
この点は間違って解釈してほしくないので一応書いておきますが、ここでいう愛って、一般で使われる心理学的な『自己愛』とも『愛情』とも違います。この世界で『私』を構成している、意識の外側に貼りついた情報、概念、思い込みなどをひとつずつ引き放していった末に見いだせる、超純粋で清浄かつ永遠不変なものです。
(”もの”でもないけど)

が、とうてい文字では表現できるものじゃないし、また長くなるので・・・またいずれ、別の機会に。

とにかく、私たちは、無意識ではすでに愛を知っていて。
だからこそ、強く愛に執着し、失望を繰り返します。

愛を知っているからこそ、周りの人間に「それは愛じゃない!!」「本当の愛を頂戴!!」って言いたくなっちゃう。クレクレ星人化しちゃう。

愛を渇望するあまりに、自分の理想通りの愛を与えてくれるよう周囲の人間を変えようとすることで、自分を満たそうとします。

実際に親を変えようと頑張った体験談

ただ、自分以外の存在の意識を変容させようと願う心の働きって、実はものすっごいエネルギーを浪費してるってことは、知っておいても損はないかもしれません。

ほら、よく言いますよね?
「相手を変えることはできないよ」って。

これを無意識でやってやろうとしてるんだから、まー大変ですょ。

そもそも、たとえ無意識だとしても、親を自分の思う通りにする、変えようとするってことは、親が変容するために必要な親の毒の浄化作業を、自分のエネルギーを使って代行するのとほぼ同一なんじゃないかなーと、私は経験上感じていて・・・。

参考までに、私自身の体験談をお伝えしますと。

私の場合は謎に言葉に説得力があるタイプだったので、その謎能力を駆使して、実際に母親の変容を促す行動を取った・・・いや、正確にいうと、自分の欲を押し付ける形で、母親を自分の理想通りに変えようと頑張ってしまったんですが。

それはときに、強い言葉で批判したり、ねじ伏せたり、間違いを正そうとしたりしたこともありましたし、感情を大放出して責め立てて無理矢理謝らせようとしたり。

みごとに最悪な関係に陥りましたね。あの頃は私もきつかったけど、母もさぞかし意味不明な苦しみだっただろうなー。

頑張った結果、親は変わったのか

で、5年ほど(長っ)そういう時期を経て陰極まりまくった結果、どうなったかというと・・・。

実は、彼女の認知を、少しずつ変化させてきたような気もせんでもないんですよ。今観た感じ、若干ですが浄化が進んだ感じもある。母。

まだまだ大きいのは抱えてるけど。でも関係性は変わったかな。以前よりかなり穏やかになってます。

あとは、過干渉な言動に関しては、現在も同じことを繰り返そうとするけど、「ほらまたやってるよ」と一言いえば、ハッと気づいて渋々やめる、みたいな。

まーこれは、私の取扱説明書の第一項「過度な干渉は嫌いである」を5年間ほど何かあるたびに母に延々懇々としつこく説明してきたので、その成果かもしれません。

だから、困難だけど、全くできないわけではない、という印象。

・・・でもこれってきっと、自分と相手の性質や意識の段階にも寄るんだろうな。うちは父は手が飛んでくるタイプで言葉なんて全く通じなかったけど、母は過干渉&共依存タイプで、一応言葉で会話ができたから。

(言葉が通じたからこそ、禁断の悪手である『相手を変える』に手を伸ばしてしまったとも言えますが)

もちろん世の中には摂り付く島もない親も当然いると思います。物理的に関わらないほうがいい親もきっといます。だから、私の体験はあくまで個人的なものでしかありません。ご注意を。

それに私の場合、同時に内面と向き合い必死に浄化に励んでもいました。『自分が変われば相手も変わる』っていうじゃないですか?なので、自分の変化に伴って親が変化したのかもしれません??

それか、単に母が変わるべくして変わっただけということも。意識の段階が変化するタイミングに重なったということも考えられます。

・・・こんな感じで、本当は何が作用したのか、正直曖昧な部分もあるんですよね。

親の毒浄化作業を代行する代償

ただ、これだけはハッキリ言えますが、この工程って猛烈に疲れるんですよ。

いやホントに。
持っていかれます。エネルギー。

そりゃー疲れて当然ですよ。親へ時間も体力も精神力も、どんどん流し込んでいくわけですから、エネルギーなんて、残るわけない。

親に意識が囚われている(=執着している)あいだは、自分の人生を創ることなんてできっこないんです。エネルギーが親に向かって大量流出してるからね。

親を変えたいというエゴちゃんの願い(欲)を叶えようと頑張って、親の内的変容を自分のエネルギーを大量消費して促した結果、結局自分が完全に枯渇した・・・そんな体験でした。

結局最後は疲れ果てて、家を出ましたし(笑)

今、この体験をあらためて振り返ってみると、母親の浄化作業を一部代行してやった形になってしまったように思えてならないんですよ。彼女自身で浄化すべき毒を、図らずも、一部私の人生に引き入れて、本来は自分に向けるべきエネルギーを、大量に彼女に注いでしまったかな、と。

意識が母親に深く没入していた感覚・・・。その間、自分の人生の中心に、間違いなく自分はいなかったです、ハイ。

『欲望からの行為は、最終的に苦しみしか生まない』・・・というインド哲学の教えからすると、私きっと、やらんでいいことやっちゃったんだろうな、とも思ったり。でも、それも含めて家族の縁を結んでいるだろうし、大きな流れの中での役割、という感じもしなくはない・・・(自問自答)。この点に関してはもっと人生を先に進めてみないと、真実は観えてこないです。

でも、貴重な体験ではありましたよ。
こういうのって、自分で実際にやってみないとわからないから。

次回へ続きます。