ひつじライオンの夜明け

ひつじライオンの夜明け

自分と本気で向き合い癒したい。本質を見極める目を養いたい。そんなあなたへ新たな視点をご提案。

このブログについて

当ブログ『ひつじライオンの夜明け』について

生きづらさを抱えた人や、自分と本気で向き合って癒していきたい、無理のない等身大の自分として、自分の能力・特質を活かして生きていきたいと願っている人などに向けて、自分との向き合い方や既存の価値観に囚われない視点を提案しているブログです。

当ブログの役割

自称アダルトチルドレンの方や、毒親のせいで人生がうまくいかないと思っている方、インナーチャイルドに興味がある方、とっても繊細な方(HSP・・・だったっけ??)。うーん、あとは・・・宇宙、魂、過去世、来世、輪廻転生、神様、生きる意味、使命、目的、潜在意識、エゴ、思い込み、価値観、認知の歪み、罪悪感、自己肯定感、自己否定、他人軸、自分軸、深層心理といった言葉に日頃から意識のアンテナを立てている方などなど・・・これまで真実を探して彷徨ってきたけど、結局本質とは何なのかいまいちよくわからない方、本当の自分が何なのかわからなくなってしまった方へ、インド哲学智慧の智識をベースに、迷いを晴らして自己の本質へと立ち返るための道案内を行っています。

私もまだまだ勉強中の身ですが、同じ魂の道を一緒に進んでいける方に読んで頂けたらいいなーという願いを持っています。

当ブログでのスピリチュアルの取り扱い

ブログ記事には、スピリチュアル的な内容が時々出てくると思いますが、私の場合、基本的にインド哲学の教えに依っているので、世間で広まっているスピリチュアルとは少し違う感覚でお伝えしています。

インド哲学は元々、数千年前からヒマラヤの奥地で真理を悟ろうと修行を重ねていた行者さん達の深遠な瞑想体験や、その中で繰り広げられた哲学的思索を集めて編纂された膨大な聖典を主軸に論じられている学問です。

悟りの境地に至った(=宇宙のことわりを完全に理解した)行者さんの教えがふんだんに盛り込まれているので、≪存在≫についての教えはまさに、スピリチュアルそのものとなっています。そしてそれは、ひたすら本質を悟るための教えです。

現在世間で広まっているスピリチュアルとは、似ているようで、意識のベクトルが違うなーと個人的に感じているので、その点はご了承いただき、気になる方はこのブログごと上手にスルーして頂ければ幸いです。

実は私も昔は人並みにスピリチュアルの知識を蓄えていましたけど、今はほとんど興味が無くなりました。欲しい物を引き寄せて成功を掴むとか、そういうのもあんまり・・・。正直どうでもよくなっちゃった。

そんなことより、本質とは?自分とは?世界とは?一体何なのか?に興味があるだけの、言ってみればただの≪自己存在探究オタク≫なのかもしれない、私。

『宇宙の本質に沿った生き方をしていれば、絶対に矛盾は生じない。』

これはヨーガの師のお言葉ですが、まさにこれが道理だと私も理解しているので、スピリチュアルで実践すべきはこの点だけ、ここにいつも意識を向けておくことが大切かなぁと思っています。

ブログタイトルが『夜明け』なのにヘッダー画像が真夜中(オーロラ)な件について

上で矛盾は生じないって言っておきながら、早速圧倒的矛盾が生じてる件。

先に言い訳をさせて頂くと、もともとオーロラ画像が一番最初にあったんですよ。キレイだなーこれにしよ!と思って。

で、この画像を基に、はてなブログで用意されているテーマを決め、CSSjQueryを記述したりして、だいたい体裁が整った段階で、そういえばブログタイトルをそろそろちゃんと決めよう!と思い立ち、しばらくこのブログを眺めながら考えてたら、なんか知らんけど出てきたのが『ひつじライオンの夜明け』だったんです。

無事にタイトルも決まり一安心。

しかし、2週間ほど経過したある日、とうとう気づいてしまったんです。『夜明け』なのに、ヘッダー画像が『夜明け』じゃない!という驚愕の事実に・・・。

これ、オーロラッッッ真夜中やん・・・(ノД`)・゜・。

一見夜明けのようにさえ見える美しいオーロラ画像に、うっかり騙された感じ?きっとそう。うん。

それで、結構世界観を大切にしたい派なので、やっぱりヘッダー画像を差し替えようと思って、でもオーロラきれいだから、夜明けの空にオーロラが出ている無料高画質画像って落ちてないかなと検索してみました。

そしたらオーロラに関するWikipediaが出てきたんで一応読んでいるとあらビックリ。

オーロラの原義のところに、
『アウローラ・・・ローマ神話夜明けの女神』と書いてあったんですよ。

調べてみると、どうやら、女神アウローラは、地上に夜明けや希望をもたらす神で、夜の闇を追い払いこの世に光を与えてくれる存在とのこと。

それで、

なんだー。
オーロラ、夜明けで合ってたわー\(^o^)/ウェーイ

となって、このタイトルとヘッダー画像で落ち着いた次第でございます。

・・・だから、矛盾は生じておりません、多分。

長文について

気づいたら長文を書いてしまっています。
私の能力では『短く簡潔に』がとても難しいです。
この点に関しては、なんかほんと、すみません。

当ブログの管理人について

概略

管理人:宙丸トヨ
独学でインド哲学を勉強中。無宗教・無所属。得意技はパターン化した根深い信念の発見。できたらいつも本質を捉えていたい人。
ミドルエイジ/女性
ヨーガ・セラピスト
インナーチャイルド・セラピスト

ご挨拶

今生、あまりにも生きづらかったおかげで、人生の早い段階で、人間の心とは?生きる意味とは?という魂が求める本質的疑問にまでたどり着くことができました。その流れで若いころは精神世界のあれこれや心理学などを彷徨ってきましたが、一切浮上できず暗中模索。そうこうしているうちに、原因不明の病気になってしまい、これは完全に人生詰んだとまで思った底の底で、ご縁あってヨーガとインド哲学と出会いました。

コツコツ勉強を続けながら生きづらさの原因とひとつずつ向き合い浄化していく中で、これまでよくつかめずにいた自分自身のことが理解できてきて、少しずつ生きることが楽になってきました。現在も様々な変化のただ中にはおりますが、ありがたいことに、心身共に結構健やかです。

宇宙から人間存在まで、その本質を捉えて本当の自分を知ろうとする壮大なインド哲学の世界観が好きです。なのでこのブログではその世界観に基づき、宇宙、魂、輪廻転生、神様、真理、真我、本質・・・こういう言葉が当たり前のように出てきますが、これらは私の体験的に、自己浄化する際あったほうが便利!という理由で、積極活用しています。もはや私にとっては当たり前のことなのですが、違和感ある場合は上手にスルーして頂けると幸いです。

もともと既存の概念に囚われるタイプではないので、ちょっと変わった視点から世界を観ているところがあると自覚しています。幼いころからあまり周りから理解されることがなかったので、誰かに自分の考えを表現することが得意ではありません。どちらかというと自分の世界さえ確保できていればひと安心の『自己完結満足型』な気質です。そういうわけで、気を抜くと、ひとりだけであらゆることを存分に楽しめてしまいます。

でもその一方で、なぜか、(かなり痛い目に遭ってるのにも関わらず)人間が好きだし、何より興味深いし、できたら自分なりの方法で人と繋がりたいという願いを持っているっぽいのです。なのでブログでは、そんな私の個人的な考えをアウトプットすることと、自分の人生体験と学んできたことと、得た気づきをシェアすることを目的として、マイペースに書いていければいいなと思っています。

伝えたい想いが高まると、どこまでも説明したくなるクセがあるので、つい長文を書いてしまいがちですが、せっかくなので、必要なところだけでも拾って頂き、なにかしらのヒントにして頂けるとうれしいです。

親の愛が苦しい理由/親を否定しつつ執着し手放せない子どもの心理

こちらの記事は毒親をテーマにした続きものです。最初から読まないと意味がわからない内容になっています。お手数ですが、よろしければ以下のリンクから順にお読み頂きますようお願いします。

前回は、自分を親の被害者として生きることを自覚したうえで選択するか、それとも無自覚でいるか、そこにどんな影響があるのかについて書きました。今回は、親の愛について述べていきたいと思います。

よかったら読んでいってください。

魂の純粋な愛は心を通過すると変質する

・・・変質て(笑)
初っ端から見出しが不穏な感じですが(^^;)

でもこの仕組みを理解することは、愛に幻想を抱き、人間関係にいつも過剰な期待を抱いては失望を繰り返す私たちにとって、心を穏やかに保つうえででとっても意味のあることだと思ってるので・・・書きます、えぇ、書きますよ私は。

クレームは一切受け付けませんので、読みたくない方はここで静かにお引き取りくださいませ。自己責任でね。

~~~~~~~~~~~~~

さて。
私たちは、≪私の≫親と思うからこそ執着します。

それはもちろん親も同じ。
≪私の≫子どもと思うからこそ、諸々ややこしくなるわけです。

そこにはまず、大前提として、≪私/I≫という圧倒的自我意識に基づく『所有欲』が意識の深いところに流れています。

『私の○○』

確かにそういう意識、私たち持ってますよね?

そして更には、その所有欲に基づく『支配・コントロール欲』も同時にあったりします。人間は基本的に、とにかく自分の思い通りにしたいんですよ。

◆自分の思い通りになっている時
⇒愛着・好き・楽・安心

◆自分の思い通りにならない時
 ⇒憎悪・嫌い・苦・不安

この二極化されたシンプルすぎる基準があらゆる場面で適応されます。当然親子関係にも。

でも、これまでの記事ですでに書きましたが、相反する二極は、そのどちらにも本質はありません。つまり、どっちに転んでも本当の愛じゃないってことです。

だって愛着も憎悪も、行きつくところはただの執着だから。執着は煩悩ですから、最終的には苦しみしか生まないんです(この点はインド哲学も仏教哲学も同じこと言ってますね)。

ほら、恋愛中はラブラブで、理想の彼氏彼女だ、運命の人だ、真実の愛だって信じてても、結婚して立場や状況が変わると、夫婦仲が険悪になったりするケースってあるじゃないですか。それで「あの人変わった。昔はこうじゃなかった。」って、相手の変化のせいにしちゃったりしてね。

でも本当は単に、自分の心が愛着から憎悪に変わっただけ。自分の都合(理想)に合っていると思い込んでいるときは愛着していて、自分の都合に合わなくなったら、憎悪へと。その正反対の二極を体験したに過ぎません。

真実の愛って何があっても絶対に変化しないんですよ。永遠不変ですから。

それはたとえ、あの頃はあんなに優しかった相手が、優しさのかけらもない言動を取るようになったとしても、です。もし自分が本当に真実の愛を相手に捧げているのであれば、その愛は未来永劫、何があっても変化するハズないんです。・・・ここ厳しいね。

つまり、自分の心が憎悪へと変化したということは、あの頃の『好き』という感情は、実は愛じゃなかった。愛着だった。真実の愛だと信じていたのは、最初からずっと、単に相手への執着だった・・・という、そんなお話。

いや、厳しすぎるだろー。
でもまぁ、愛着⇔憎悪の二極の転変を実際に生々しく体験したことのある人ならきっと、心のどこかではわかってるんじゃないかなーと思いますが・・・。

でも我ながらわかりやすい例え話だわ。恋愛結婚って、あらゆる人間関係の濃縮版だから、ホント気づきの宝庫なのよね。

はい、ちょっと脱線し過ぎたので、ひとまずここまでの話をまとめますと、まずは、変化する愛着・憎悪の二極の間には真実の愛はない、ということ。そして、私たちは基本的に自分の思い通りにしたいという願いを無意識に持っていて、自分の都合に合うか合わないかで瞬時に好き嫌いを判断し、その感情に基づいた反応を世界に現していますよ、ということです。

そして本題。
親子関係も同じ。親子どちらにも『自分の都合』に相手を従わせたいという無意識の欲が絡んでいるからこそ、執着(愛着⇔憎悪)になって、とても苦しいんですね。

あ、ここは勘違いしないで頂きたいところですが、意識の発露は間違いなく純粋な愛なんですよ。魂は純粋そのもの。そこから出た愛は、真実の愛以外の何ものでもありません。

でも残念ながら私たちは、その愛を純粋なまま現すことができない仕様なんです。

なぜなら人間だから。
みんな生来の毒持ちだから。

・・・心。
はい、コレですよ。
人間って、もれなくコレ、持ってるでしょ?
コレが、魂が放つ純粋な愛と世界との間に、必ず挟まる仕様になってるでしょ?

何か行為しようとすると、必ず感情や考えが間に挟まってくるわけですよ。だから魂の純粋な愛を、その愛のままに表に現せないんです。途中で変質し、歪んじゃう。

詳しく説明します。
魂は、肉体を纏うことで”人間”を体験します。人間には”心”という複雑かつ繊細な機能が標準装備でついていますよね。

インド哲学の考えで、心とは内的な心理器官と考えられていて、以下のような機能があるといわれています。

  • 意思(外的感覚を授受する器官)
  • 理智(認知・判断・識別・行動指令)
  • 我執(自我意識・エゴちゃん)
  • 記憶(体験に基づく潜在的な印象/過去世のも含む)

これらを総合的に≪心の働き≫と表したりします。

そして、魂がわざわざ肉体を持つ目的は≪体験≫と≪気づき≫を得るためです。心は、そんな魂の目的を果たすために欠かせない機能だったりします。だって、もし心がなかったら体験を求めようともしないし、気づきを得ることもできないからね。心って、悟りを得るうえで、とっても大切な機能だといえます(これもインド哲学の考え)。

でもその一方で、上述した通り、心があるゆえに、純粋な愛をそのまま世界に現すことがとっても難しい仕様になってしまっていることも事実。

例えば、鏡。
自分の本当の姿を鏡で観ようとしたとき、その鏡が汚れていたり歪んでいたら、本当の姿をありのままに観ることはできません。心も同じ。認知が歪んでいたら、ありのままの自分(魂/本質)を映し出せないです。

もうひとつ例えると、水面のさざ波。
水底に沈む宝石の輝きをありのまま観ようとしても、水面が波立っていたら、波の動きでゆらゆら歪められて、その輝きをありのままに観ることは不可能です。心はさざ波のように、常に外的要因に影響されて動いています。心がざわざわと動いている限り、その最奥にある魂の本質の輝きが、そのまま現れてくることは無いんです。

こんな感じで、過去の記憶と経験、感情、自我意識、欲、思い癖(認知)等、幾重にも重なるフィルター(=これこそが毒)で私たち人間の心は常に揺れ動いてしまっているので、純粋な愛はこのフィルターを通過する過程で、もののみごとに変質しちゃうんです。

変質した≪愛だった何か≫は、歪んだ形でしか現すことができません。それは時に過干渉となり、価値観の押し付けとなり、ネグレクトとなり、暴力行為にさえなってしまうこともあります。

「お前のため」って、親、言いがちでしょ?

多くの親はその言葉を吐く瞬間、本気でそう思ってる。暴力行為でさえ、しつけだと信じてやってる。信じ込んでる。

だって発露は≪純粋な愛≫だから、意識の出発地点では、確かに相手のためなんですよ。でも、現す段階で変質して、時に暴力さえに変わる。≪相手のため≫が、『私の○○』という所有欲と支配欲、感情や思い込み等のフィルターを通ることで、≪自分のため(自己都合)≫へと無意識ですり替わる。

思い通りにならないなら、力づくか、罰を与えるか、時には怒りの感情を使って何としてでもコントロールしようとしちゃう。

そしてその欲を抑えるのは、実はとっても難しい。なぜなら支配欲は、人間の五大煩悩の一つ(←ここはインド哲学の考え)である≪自我意識≫からきている欲だからです。そりゃあもう、めちゃくちゃ強烈ですよ。きちんと自覚して訓練しないと、簡単に制御できるものではありません。

こんな心の状態に自力で気づいて修正することができる親は・・・よっぽど客観視力と自己制御力が育っていて、自分で自分の意識をグイッと引き上げられる強さがない限り・・・親本人が自分の所業に悩んでいるとかじゃないと、難しいよね。無意識にただ生きてるだけじゃ、変わらない、きっと。

でもこれって、親に限ったことじゃないんですよ。人間みんな、自我意識に完全に飲み込まれ、迷妄(=マーヤー)の世界に丸ごと没入してる。自分が迷妄の世界にいることさえ気づくことができないのに、自分を客観的に観ることなんて更に難易度高し。

もはや、天から突然が降ってくるような衝撃的なライフイベントに遭遇して、強制的に意識を覚醒させるでもするしかない。

そうでもしなきゃ、人間はさながら眠ったまま生きているような意識状態だと言われています。

・・・寝ながら生きるって、ある意味器用だけどさ(*_*)

親の愛をあきらめないエゴちゃん

そして、自分の都合という視点でいえば、普段から親を否定してばかりいる子ども側も同じなんですよ。

だって、前回までの記事で説明した通り、≪毒親≫という概念に執着して親を否定し続けることで、自分と自分の人生と向き合わずに済むという潜在意識エゴちゃんの願いを見事に叶えているわけですから。

これって結局、自分の都合でしょ?まぁ、自分の都合に≪毒親≫という概念があまりにもぴったりフィットしがちなので、初手で陥りやすいところなんですけど・・・。

更に、それにプラスしてもうひとつ。
私たちには、親の愛への無意識の渇望があります。

毒親・・・毒親・・・って言って、親を否定する意識って、裏を返せば、激しく親の愛を渇望してるのと一緒なんですよ。親を全くあきらめてない。そこにはものすごい執念・執着があるわけです。

そりゃあそうです。本当に親への執着を断ち切っていて、自分で自分へ愛を注ぐことができ(=自立)、もはや親に愛を求める必要が無いという愛着・憎悪の二極を超える意識段階に至った人は、その言葉が自分に全くフィットしなくなるので、一切心惹かれなくなります。率直に言って、どうでもよくなる。

逆に、親への憎悪(=執着)があるってことは、まだ親の愛を求めてる、親をあきらめてない、ってことになりますよね。

深いところに、エゴちゃんの切ない願いがありますから。

間違っている親は罰せられるべきだ。
いつか過ちを思い知ればいい。
自分の過ちに気づかせるべきだ。
絶対親を許せない。

こ~んな感じの根深い意識をガッチリ握りしめておくことの、エゴちゃんの真の目的って何だと思います?・・・ってもう答え書いちゃってるんですけど(汗)

そう・・・

親をあきらめずに済む これです。

強い強いエゴちゃんの執着の目的は、自分の都合通りにいつか親が変わってくれること。

これがエゴちゃんの願い。
無意識の欲です。

いつか自分をわかってくれるんじゃないか
いつか自分を愛してくれるんじゃないか
いつか自分を理解してくれるんじゃないか
いつか自分を受け入れてくれるんじゃないか

・・・いつか、いつか、そういう日が、くるといいな。

満たされない想い。
渇望感。枯渇感。

ぽっかり空いた心の穴を、親に埋めてもらおうとしてる。もちろん無意識でね。

そう。無意識。
無意識で、あきらめなければ、いつか親が自分の理想(=都合)通りの親に変わってくれるんじゃないかという願いを持っているからこそ、親をギュっと握りしめて、執着を手放さずにいるんです。

だから、やっぱりこれも自分の都合。
自分の願い。自分の欲。
ここは親への執着を手放したくても手放せないでいる人にとっては、厳しいと感じるところだろうけど。

私たちって結局、親子関係を通して、それぞれの立場で、自己都合の押し付けというカルマを延々と体験してるんです。

相手が自分の思い通りになると幸せ、思い通りにならないと不幸。相手に自分の幸福を委ねる。これは他人軸の生き方です。

人間はこれを、気が済むまでやります。
これじゃあうまくいかない、真実から遠ざかるばかりだと気づいて、親への執着を手放そうと心底決意するまで、やります。人間だもの。やりたいんだもの。仕方ないよ。

親子で互いの毒を持ち寄り、その毒を混ぜ混ぜし合って、自分の魂の課題に沿った、愛憎の二極ドラマを創り上げる。そのために今生の縁を結んだ存在。親子。

いやぁ・・・親子関係とは、実に奥深いもんですなぁ(遠い目)。

これもひとえに、魂が、体験と、その体験から気づきを得るために仕組んだ、壮大なる毒の混ぜ混ぜ。

全ては『気づき』のため。

そして、自分が創ったドラマを≪完≫させるのは、これは絶対的に自分の仕事です。主役である本人が役を降りれば、そのドラマは終わり、です。

親を毒親だと嫌って安心しているうちは、まだまだドラマは終わりません。これはたとえ、親が死んだとしても、絶縁して疎遠になったとしても、です。

だって、このドラマは自分自身の内側で繰り広げられ続けているものだから。親じゃなく、自分が≪完≫させるしかない。自分で自分に「もうドラマ、降板していいよ、降りても私、大丈夫だよ」って伝えて、ぽっかり空いた心の穴を、内側から愛で満たしてあげて安心させてあげるしかないんです。

ここに取り組むためには、まずは親や自己存在、関係性の真実などについての認識を、自分に擦り込んだ思い込みという縛りから解き放ち、もっと意識の範囲を拡げて引き上げ、新たなイメージへと刷新する必要があります。

次回へ続きます。

被害者意識では能力を発揮しづらい理由!自覚的に生き方を選び取れるかがポイント

こちらの記事は続きものです。最初から読まないとよくわからない内容になっているので、大変恐縮ですが、以下のリンクから順にお読み頂きますようお願いします。

前回は親を毒親認定しておくことで無意識が感じているメリットについて述べました。今回は、被害者意識を持ちながら生きると人生にどういう影響があるのか、そして、被害者スタンスで生きることについて自覚があるか無いかでどんな違いがあるのかについて述べていきたいと思います。

よかったら読んでいってください。

毒親概念の無意識メリットと被害者意識

毒親の「被害者」でいると得られる無意識レベルのメリットって、細かく挙げると結構あります。

  • 自分を正当化することができる
  • 親を責め続けることができる(復讐)
  • 人生がうまくいかない原因にすることができる
  • 自分の人生に責任を持たずに済む
  • 人生の課題に向き合わずに済む
  • いつまでも子どもの意識でいられる(自立せずに済む)
  • 親に甘えていられる

などなど。
まぁ結局全て、前回お伝えした『自分と自分の人生に本気で向き合わずに済む』に集約されちゃうんですけどね。

そして、無意識のメリットに囚われてしまって毒親の「被害者」として生きる人生を選び続けるってことは、すなわち、自分自身を幸薄くて力なき≪弱き者≫としてこの世界に留め置くことを選び続けるってことと同じです。

だって、被害者が強くてハッピーだと、色々辻褄合わなくなりますから。

「こんなひどいこと」されたって堂々と主張できるのは、力を持たないアンハッピーな弱者だからこそ。「自分は被害者なんだ」と現在進行形で主張し続けるためには、力を持った強者になっちゃうとおかしいし、ハッピーでいるわけにはいかないわけです。

なので潜在意識のエゴちゃんはその辻褄合わせのために、無意識パワーを使って『現実』を『エゴちゃんの願い』のほうへぐいぐいと引き寄せます。

つまり、幸薄くて力なき≪弱き者≫という自分を設定して、それに見合った世界観を創り上げて生きていくことを、自ら選び続けるということになります。

力なき者として生きる代償

力なき者として生きるということは、人生において、自分の力を発揮しないということです。

・・・これ、『発揮できない』んじゃなくて、『発揮しない』ね。無意識の自分がそれを選んでいるというのがポイントです。自らが自分の力を発揮して生きる機会を奪っているということです。

自分の力を発揮せずに人生を好転させていくことは、限りなく難しいです。私はこのジレンマにめちゃめちゃ苦しみました。

この世界で思う存分自分の能力・特質を発揮してみたくても、もしそれをやっちゃうと、力なき毒親の被害者という立場を捨てなくちゃいけない。他の誰でもない唯一無二である自分自身に立脚し、自立の道に踏み出していかなきゃいけなくなります。

それがとてつもなく怖かった。何かやろうとしても怖くてできない。自分で人生を創るとなると、自分で全責任を引き受けなくちゃいけないから。

自分にこういうジレンマがあることをハッキリ自覚して、意識を切り替えていくのに数年間、内側が引き裂かれるような葛藤を味わいました。ほんとにしんどかったです。

無意識なのか、自覚があるのか、どっちだ

この話って、被害者スタンスでいることをやめましょうとか、そういう話じゃないんですよ。

私がここで一番伝えたいことは、本人は幸せになりたいと思っているのに、無意識が被害者でいることを選んでる場合は、そこを自覚して選び直す必要があるかもね、ってことです。

すでに自覚していて、それでも自分は毒親の被害者としての人生を全うしたいっていう人は、本人の選択なので、そのまま進んでみればいいんじゃないかなと思ってます。この世界での体験に良いも悪いも無いんだし、実際自分で体験してみないと、本当のところはわからないし。

親のせいにして生きてる間は自分で自分の人生の責任を意識の上では背負わずに済むわけで、自分と本気で向き合うことを回避してることになるって私は考えていますけど、だからといって、前回の記事で書いたように、逃げることが悪いとは全く思っているわけではありません。

とにかく重要なのは、被害者スタンスで生きてることや、自分の人生の責任を回避していることについて、『ハッキリと自覚を持てているか』

この一点に尽きます。

自覚しないまま生きるとはどういうことか?

私たち(=魂)は、とことん逃げる体験も、やりたいんだと思います。逃げて逃げて、際の際まで行ってみないと見えてこない世界って、ありますから(体験者は語る)。

ただ、「被害者でいること、自分から逃げてることを自覚しているかどうかで全然違うよ」ってことは、どうしても言いたい。なのでしつこく2回書いた(笑)

どう違うか?

無意識のままだと、生き癖・パターン化し、何度も同じことを繰り返すだけです。うまくいかない体験を繰り返すたびに記憶が強化されて「やっぱり私は親のせいで・・・」「やっぱり私はアダルトチルドレンだから幸せになれないんだ・・・」と、自分にスリスリと思い込みを擦り込んでいきます。

因みにちょっと余談ですが、インド哲学ではこういった記憶に基づく印象のことをサンスカーラ(残存印象)といいます。サンスカーラは肉体をチェンジしても魂にくっついて新たな肉体にIN☆するので、何度生まれ変わっても同じような境遇、同じような体験を繰り返す仕組みになっているようです。このサンスカーラを浄化することで、私たち(魂)は自己の本質をそのまま現すことができるようになります。本当の意味で”ありのまま”に生きるとは、こういうことですね。

話を戻します。
まぁね~・・・大体の人は、気づきを得るまでに何世も何世も生まれ変わりを経験するものです。一生欲しい気づきを得られないまま、次の肉体へ・・・ということも、ざらにあると思います。顕在意識では生まれて初めてのように感じる体験でも、無意識では慣れ親しんだ類似体験だったりするので、ある意味馴染み深いわけですよ。だから選びやすい。未知よりも既知のほうが、安心感ありあり。苦しいなりになんとかこなしてきた過去世での経験値なんかも持ってるかもしれない。

そういうわけで、自覚しないまま生きる場合、ある意味刺激も少なくて、低め安定でやり過ごせるとは思われます。ただ、変われないだけ。

自覚して、被害者スタンスから抜ける選択をする

一方自覚して生きる場合、刺激強め、冒険者向けです(は?)。被害者スタンスから抜け出したい場合は特に、わかっていてもやめられないという葛藤が苦しいですが(体験者は語る2)、諦めなければ絶対いつかは抜け出せます。だって私たち(魂)は、その体験のためにわざわざ肉体をまとって生まれてきてるわけですしね。魂は冒険が好き。

私個人としては、自分を浄化し、苦しみの輪廻から解放してあげるためには、こっちのほうがオススメかな~と。葛藤があるうちは苦しいですけどね。抜けたら楽になります。自分を信じる力が試される冒険の旅になるでしょう。

被害者スタンスを自覚的に選び取る

一方「別に被害者スタンスから抜け出すつもり無いよ」っていう人でも、自覚しているのと無自覚とでは全く違います。自覚して、自分で被害者人生を選び取っている時点で、それはもう自分の人生の責任をドーンと引き受けているのと一緒です。

なにしろ、選んでるんだから。

と~っても主体的。自分軸。自己責任ある毒親被害者へとランクアップして、自分の意思でその道を突き進むことができます。これは強い。もはや弱者とは呼べないでしょう。

ただし被害者スタンスと自分の内面から湧き出る力との圧倒的矛盾に陥る可能性はあるかもしれません。ここが葛藤・強刺激ポイントとなるはずです。そのときにこそ、本当はどうしたいのか、あらためて自分に問いかけてみると面白いかもしれませんね。新しい何かが始まるかもしれないです。

何を楽と捉えるか?

どう生きるかは、本当に自分次第なんだな・・・としみじみ思います。無自覚でさえなければ、自分で自分の人生の手綱は握れてる

『親のせいにして自分の人生の責任を引き受けないこと』を≪楽≫と捉えるのか、それとも『葛藤を経験しても、苦しみの原因となっている人生パターンから自分を解放すること』を≪楽≫と捉えるのか。

何を『楽』と捉えるか、その人次第、好みの問題かなーと。

自覚することで初めて選ぶことができる

前回の記事で書きましたが、ここで自覚的に『逃げる』を選択するのも、ひとつの生き方です。『たまには逃げる』も『都合が悪い時だけ逃げる』もやりたけりゃ気が済むまでとことん試してみればいいんです。

コツは、「今私、親のせいにして自分から逃げてるわ~」と自覚し続け、「それでも今は逃げる!」と毎回自分で決めること。無自覚に逃げてた頃とは全く違う意識がそこには生まれていますから。

そして、もし「そろそろ≪私カワイソウ沼ダンジョン≫から出て、≪毒親被害者≫以外にジョブチェンジしたい」と思ったなら、そのときこそ親のせいにすることをやめると心底決めて、自分で自分の人生を創ることを選べばいい。

私たちはどの瞬間からだって、生き方を選べます。

強き者たちへ

私、思うんですけどね。どの選択をするにせよ、自覚して強刺激の中生きているだけで相当の猛者魂なんですよ。すごいの。だからそんな自分のことをリスペクトして、大切にして、どんなときも自分の心に寄り添いながら、あたたかく応援してあげてほしいなと思います。

もうひとつ。
自覚=気づきを得ているということです。ということは、確実に魂の段階は進んでいるということになります。魂は諦めません。何度でも肉体を変えてトライし続けます。自分という存在には、そんな本質的な力強さが備わっていることも、ついでに自覚しておいて頂けるといいんじゃないかなーと思っています。

そして、上でも書きましたが、どんな生き方を選択したとしても、自覚して自分で生き方を選んでいる時点で、実はあなたはすでに力を取り戻しています。弱者とは言えない。そのことは覚えていてください。いつでも、あなたは自分のためにその力を発揮できるし、自分で自分の人生を創っていくことができるってことです。

~~~~~~~~~~~~~~~

今回はここまで。
次回へ続きます。次回は、魂の純粋な愛はなぜ毒に変わってしまうのかについてと、親をあきらめないエゴちゃんの無意識の願いについて書く予定です。

それではまた(^^)/

親を毒親認定することで得ている無意識のメリットとは?自分と向き合う前に覚悟が必要な理由

こちらの記事は前々回からの続きものです。
最初から読まないと理解できない仕様なので、まだの方は大変お手数ですが、前回までの記事を全て読んで、又こちらへ起こしください。

因みに前回は・・・
親を毒親認定してみたところで、今度は毒親という言葉に縛られ、≪カワイソウな私≫という世界観を自ら創り上げて苦しむだけ・・・。愛着⇔憎悪、許したい⇔許せない、親を責める⇔自分を責めるなど、正反対の二極の想いの中でグラグラ揺れ動いている間は、本当の意味で心を解放・浄化することはできないよ!私たちが本当に気づきたい親子関係の本質は二極を超えたところにしか無いよ!っていうお話でした。

今回の記事は、親を毒親認定することで得ている無意識のメリットについて、私トヨの体験談も含めて述べていこうと思います。

よかったら読んでいってください。

※この記事は、毒親という概念から自分を解放して、本気で自分と向き合って癒していきたいと願っている人に向けて書いています。毒親を嫌い続けていたい人、親が全て悪いと信じていたい人は、読んでもイライラするだけなので、ここから先は読まないことをオススメします。自己責任でご判断ください。

毒親認定ラベルを貼ってたほうが楽だったりもするが・・・

・・・親を毒親認定してると、楽ですよね?

・・・・・・ねっ(・▽・)?

いや、本当は楽じゃないんです。わかってます。だけど、『ある意味では楽である』とは言えるんじゃないかと考えています。

自分の親が毒親だと考えるだけでとっても悲しいし、罪悪感も湧いてくるし、逆に怒りや憎しみも感じます。本当はずっと苦しいんです。誰か助けて!!!叫んでしまいたい位。

でも!でもね。
それでも、親を毒親認定することで、”死ぬほど怖い例のアレ”からは、自分を守り続けることができてるんです。毒親として親を否定し続けることで得ているメリットは、確実に存在します

このメリットが、潜在意識のエゴちゃんにとっては超重要。たとえ99が≪苦≫だったとしても、残り1の≪楽≫のほうを選びたくなる位には、大きいんです。

ラベルを貼っておくメリットとは?

さてさて。
ここで一旦、腹を据えましょうか。

そもそも私ね。
上でも書きましたが、この記事に関しては、自分自身を心の底から変えていきたいと願っている人が読みに来てくれると信じ切って書いているんです。そういうわけで、せっかくだし、ここはあえて、潜在意識に少し揺さぶりをかける問いかけをしてみたいと思います。いきます。

毒親に・・・」「毒親のせいで・・・」っていつも言ってるけどさ。それって要は、自分自身から、逃げてるんだよね?

逃げてる。
回避してる。

毒親』という概念を便利に活用することで、自分と、自分の人生に本気で向き合うことから逃げてます。

自分と本気で向き合わずに済む。

これです。 

あ!親から逃げてるっていう話じゃないのでご注意を。私は、関わりが難しい親とは、まず適切な物理的距離を取ることがとっても大切だと考えてる人なので(私も心を整えるためにまずは親から物理的距離取ることから始めました)。むしろ過酷な環境にいる人は、可能なら早めに親フィールドから退避したほうがいい。勇気ある撤退推進派です。

今回の話は“親“じゃなく、“自分“から逃げてる、ね。

これこそが、潜在意識のエゴちゃんが愛してやまない最大のメリットです。残り1の≪楽≫ですね(←これもホントは単に、エゴちゃんが苦と楽を勘違いしてるだけなんですけど・・・)。

そして同時にエゴちゃんにとって、自分と自分の人生に本気で向き合うことは、”死ぬほど怖いこと”でもあります。

怒りが湧くのは当然です

「逃げてる」なんて・・・・・。
厳しいですよね。わかってます。私もそうですが、親に虐待された経験がある人なんか、特にね。

苦しい人生を辛くも生きてきた末、自分のこと何にも知らないババアなんかに「あんた逃げてるよ」なんて言われたら、そりゃあ到底受け入れられるもんじゃないですよ。怒り心頭だと思います。

怒りをワキワキさせてしまったことについては、謝り・・・ません。その怒りはあなた自身のものです。とっても正当な感情です。私が保身のため安易に謝ってしまった瞬間から、またあなたを被害者スタンスに陥らせてしまう。せっかく湧いてきた大切な感情を無為にしてしまう。それではこのブログを書く意味がありません。

なので「どうかその怒りを大切にして、怒りの奥に隠れているご自身と深く静かに向き合ってみてください」と、今はそれだけお伝えしておきます。

まぁ、私も自分の身がクッソかわいいので、ちょっとだけその怒りを回避させて頂くと、上記の「逃げてる」のくだりは、あくまで私自身の体験からの個人的洞察、ごく私的な考えと理解してくださると助かります。(なので不要な情報と判断した場合は上手にスルーして、捨て置いて頂けると助かります。)

それと、そもそもこのブログ自体が、自分を内側から本気で変えていきたい人に向けて書いているため、潜在意識にべったり粘着して、苦しみの原因となっている古い価値観に揺さぶりをかけることを意図しています。なので陰性感情が湧いてくるのはある意味当然です。自分を変えたくない安定大好きエゴちゃんからすると、とんでもなく大迷惑でしょう。なんやコイツ!と批判したくなる気持ち、よくわかります。

でもその湧き上がった感情こそが、自分でも気づいていない本音・本心へと必ずつながっています。エゴちゃんに封印されたインナーチャイルドちゃんが、その感情の奥に確実にいます。できたらご自身と向き合うキッカケにしてくださるといいなぁ・・・という想いはあります。この点は私個人の勝手な願いです。

自分と向き合うには相応の覚悟がいる

それともうひとつ。
「腹を据える必要がある」のは、無意識で逃げてると、自分と向き合う扉がいつまでたっても開かないからです。いざ内観するときに向き合いきれず、エゴちゃんが無意識パワーで華麗に回避する隙を与えちゃうんでね。

なにしろエゴちゃん、回避のプロだから。心理的ブロックをあちこちにバラまいて、意識の深いところにまで入れないよう防衛力を発揮してきます。半端な気持ちじゃ、この防衛ラインは突破できないです。

自分と本気で向き合うためには、『自分が自分から逃げてる』ってことを明確に自覚し、もう逃げないと決心する必要があります。覚悟が要ります。

覚悟は、自分の意思の力でしか、成せないです。なので、ちょっと強い言葉をあえて使わせて頂きました。ここまで読んでどう自分の心が動いたか、よかったら今のご自身の状態をチェックしてみてください。

それでも向き合えないときは、逃げていいんだ

あと、これだけ語っといてなんですが、逃げていいんですよ。自分と人生から逃げていなければ心が保てない時期だってあります。全て親のせいにしてなきゃ、生きていけないほど心が複雑骨折しちゃってることも、あります。

そして親のせいにして生きることだって、生き方の選択のひとつです。正々堂々、『逃げる』コマンドを選択するんです。今はそういうターンだと、自分をどこまでも肯定してね。逃げる自分をどこまでもあたたかく見守って、寄り添い続けてあげてほしいです。

ただ、この点は次回あらためて触れる予定ですが、逃げるときの意識の持ちようだけは、いずれ自分と向き合う段階に入るときの下準備として知っておいたほうがいいコツがあるので、それだけでもお持ち帰り頂けると嬉しいです。

私が逃げてた頃の話

正直、逃げまくってました。

私こう見えて(どうみえてる?)、人生経験がまぁまぁ豊富なんです。イベントだけピックアップしても、小学生時代はイジメに遭い、自宅が火事2回、泥棒がちょうど家に侵入したところに母と一緒にご対面、父の借金、父連帯保証してた知人から逃げられ家財一式差し押さえられる、父追突事故起こすが相手の車がヤのつく兄貴だった、父ハーレーダビットソン詐欺に引っ掛かる、父家をごみ屋敷にする、父破産とそれに伴う一家夜逃げ・・・え、父関連やばい。書いてみてビックリ(笑)他にも、信頼してた友人恋人の裏切り、リーマンショックで仕事を切られ、原因不明の病気になり・・・。

出来事だけでもお腹いっぱいなのに、両親ともに(私も)抱え込んでる未浄化なものが大きかった。あ、いや、抱えているものが大きいからこそのビックリイベント祭りだったとも言えますが。父はDV連鎖の家庭環境で育ち、非常に精神的に不安定、躁鬱が激しい気分屋な一面が。そして母は自己肯定感が低くて『弱くて可哀想な自分』でいることで周りを支配コントロールする過干渉な一面があります。どちらもまるで子どもの意識のまま肉体だけ大人になったような印象でした。子供の頃から、子どもみたいな二人だなぁ・・・自分がしっかりしなきゃ!と常々危機感を抱いていました。

とにかく安定・安心とは正反対の環境で育ちましたね。人生も大荒れだったし、自分自身もすごい荒ぶってました。不安しかない。世界は敵だ!と本気で信じてました。

そんなわけで私のエゴちゃんは人生経験値がまぁまぁ高く、それゆえ怖れが強烈で、しかも防衛力がえげつないのです。怖れを超高性能センサーにして、少しでも危険を察知すると全力で回避しようとします。危ない橋は叩いて叩いて叩いて叩いて・・・・・橋壊す、みたいな。変化しかない流転の人生だったんで、とにかく変化が怖いわけです。

平均・平凡・普通・一般的・安定・影薄い・目立たないこそが最高の状態。

もう重いもの背負えるだけ背負ってるのに、これ以上何を背負えと!?は!?自分の人生の責任!?持てるわけねーだろ!!!バーカ(・∇・)

(↑エゴちゃんの気持ち)

なので自分の人生を自分で創るなんてもってのほか。全力で逃げるために、最終的に人生のうまくいかないこと全部、何もかも親のせいにするようになってました。もちろん無意識でね。本人は逃げてる自覚なんてありません。必死に生きてますから。

あと、昔、父から「育て方を間違った」と言われた経験も大きかったかも。当時はこの言葉をそのまま受け取っていたため、まるで自分は間違いそのもの、不良品の烙印を押されてしまったような虚無の感覚に苛まれてましたね。そしてこのことをずっと引きずっていたので、何かうまくいかないことがあると、「あんたたちが育て方間違ったんだろ!こんな風になったのは私のせいじゃない!!」って、自分から問題を無理やり引き剥がして目を背けさせるための常套句になってました。

自分の力で人生を変えていく自信が無いし、そもそも変化すること自体が怖いので(エゴちゃんはたとえ底辺でも安定が好き)、なんだかんだ、うまくいかない理由を親に求めるんですよ。親のせいにしとけば、とりあえず≪楽≫でしょ?自分で責任を負わなくていいんだから。

このメリットに無自覚に囚われると、≪カワイソウな私≫沼から自力で抜け出すのは非常に難しいです。なので、まずは親のせいにしておくことで自分にどんなメリットがあるか、内観してハッキリと自覚することがとても大切になってきます。

はい。
今回はここまで。次回へ続きます。

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そしてここからは余談というか、後日談。
上述した父親の「育て方を間違った」発言に関しては、現在は引っ掛かりは無くなっています。だってそう誤判断したのは、私の本質を正確に観ることができない彼自身の心のレンズの曇りっぷりが問題で、しかもそれを言葉にしちゃう彼の心の弱さが問題なだけであって、私の問題じゃなかったんで。

そもそも人間とは、間違った観方(=これを前回記事では≪毒≫と表現しました)ばかりしてしまう生き物ですが、本質的な”存在”と”その人生”には間違いなどあり得ないです。不完全なところも含めて、大きくて完璧な流れの中で生かされているのに、間違い⇔正しいの二極の価値観なんかで、人間存在を縛ったり測ったりすることなんて、できるわけ無いんです(断言)。

要は、父の曇ったレンズでは私を正しく観ることなんて不可能。父に私という存在を測ることはできません。まずはレンズの曇りをキレイにしてもらわないとね。

だから父はもしかすると今でも「あいつの育て方を間違った」と思っている可能性はあります。でも、彼がそういう世界観を創ってその中で生きたいのなら、それは彼の願いなので、私にはどうしようもないことですよね。父が思う理想的な娘像を演じてあげるわけにはいかないし。それに、父にどう思われようが、私という存在は揺るがないじゃないですか?特に影響がないといいますか・・・。だから、それはそれで、いいんじゃないかなぁと思っています。彼は苦しいでしょうけど。

まぁ実際問題、もし今同じことを言われたとしたら、言われた直後は一瞬心は動きますが(それが心の働き・役割なので)、すぐに「いやそれって育て方じゃなくて、観方が間違ってるね。だってさ・・・」と即答&長々と解説し始める予感(笑)人間の心の在りようを語り出すと面白くて止まらない病が出そう ←

・・・どうやら、下手に絡むと大変めんどくさい人間には、立派に育っているようです。見事な育ち具合。これでいいのだ。

生きづらさの原因は自己存在の否定!毒親という言葉は私たちにどんな世界を創造させるのか?

こちらの記事は、前回からの続きです。
まだ読んでいない方は↓こちらからどうぞ!

今回は、親を否定することがなぜ自己否定につながるのかについて、自己存在の基盤という観点から考えてみます。そして毒親という言葉がもたらす影響をあたらめて整理し、新しい視点で眺めてみようと思います。

よかったら読んでみてください。

親を否定することは自分を否定することと同じ

親という存在は、まぎれもなく自己存在の基盤・土台です。彼らから生まれた私たちは、肉体的・精神的特質を与えられ、固有の価値観を受け継いだだけでなく、膨大な時間とお金とエネルギーを注がれて育てられたことはまぎれもない事実。いくら嫌だと否定しても、仕方ないところ。”宿命”とさえいえる部分です。

そんな自己存在の基盤である親を否定しているということは・・・

親を否定
=自己存在の土台を否定している
=自分自身を否定している

・・・ってことになります。当然に。

これは余談ですが、確かに嫌って当然みたいな所業の親も、実際いてますけどね。それこそニュース番組で扱われるようなレベルのね。でも今回の話に限っては、親の善悪を問うているのではなく、親を否定していると、心にどういう影響があるかという話をしています

話を戻しましょ。
そういうわけで、親を否定するマインドを持っていると、同時に必ず自己存在も否定しながら生きることになるので、それはもう、大変生きづらいのです。

この世界は心の在りようをそっくりそのまま投影したものですから、世界全体に≪親否定(=自己否定)≫というフィルターをかけて観ることになってしまうからです。

まぁねぇ、フツーに考えても不合理なわけですよ。
自分の世界なのに、自分が在ることを認めないという設定・・・無茶苦茶無理ゲーじゃないですか?(笑)

こうなると、親はもちろん、親とは無関係のあらゆる対人関係においても、なぜかいっつも自己否定したくなるような出来事が起きたり、周りから存在を否定されてると感じてしまうような体験を繰り返すことになります。

世界は無色なのに、そのフィルターの働きによって、世界がぜーんぶその色に染まってしまい、本当の世界をありのままに観ることができなくなります。

ここがなかなかに厄介なんですよね~・・・
でも逆にいえば、そのフィルターを外せば(=認知を健やかにすれば)世界観はかなり変わるということでもありますね。なのでここが面白いところでもあります。

毒親」という言葉と概念が覆い隠す本質

前回からここまでつらつら書いてきましたが、結局何が言いたいかというと。

親を≪毒≫と観ているうちは、苦しみの二元性世界の枠から出ること、絶対にできないんですよ。

愛も憎も、二極の相対的なものはシーソーみたいに常に揺れ動くし、変化するでしょう?苦しみを伴う正反対の両極を味わっているだけに過ぎない以上、苦しみから抜け出せるわけありません。

ものごとの本質は、対立する二極を超えたところにしか存在しないので。

親を毒親認定して一時どんなにスッキリしたとしても、結局今度は「毒親」という言葉の呪縛に縛られるだけです。

たとえ自分の親が、毒親本に書いてある毒親のテンプレートにバッチリ当てはまり、自分がアダルトチルドレンのテンプレートにバッチリ当てはまったとしても、だからといって、それが親の全てじゃないし、あなたの全てじゃない。

そうじゃないですか?
アダルトチルドレンの該当項目以外にも、あなたらしい独自の部分、あるはずですよ。

私たち人間存在は、他人が作った物差しなんぞでは、とうてい測れるものではないです。人間一人ひとり、経験も記憶も性格も能力も特質も課題も、全く違うというのに・・・。

言葉の縛りによって、本当に観たい全体像が一気に見えづらくなる。あまりにも強い≪納得感≫があるゆえに、意識をその言葉の中に埋没させ、自分を概念という檻に閉じ込めてしまう。

所詮「毒親」というものは、誰かが制限ある人間の脳の機能だけで作り出した、ただの三次元的世界限定の言葉と、言葉に紐づく概念でしかありません。

宇宙の普遍的な理に沿っているものでもない。

ただの人間が、
思考をこねこねして、
その産物として創り出した、
ただの言葉、
ですっ!ですですですです・・・(エコー)

・・・とはいえ、言葉の力はめちゃめちゃ強力です。なにしろインド哲学の世界観の中では、言葉は神様から人間に与えられたギフトで、世界を創る力を有するといわれます。

言葉があるからこそ人間は深く自分について熟考し(=瞑想)、いずれは真の自分を知ることができる(=解脱)。要は、解脱のお供として授けられた便利機能。

だからこそ大切に扱わなきゃいけないものだし、取り扱いには注意しないといけないものです。

(あ、そういえば日本でも「言霊」ってありますよね~)

そんな強力な言葉のマジックに一旦囚われてしまうと、毒親テンプレートの枠の外にある、私たちが本当に観たい本質・・・つまり、親との関係を通して魂が真に気づきを得たいと願っていることを観る視点を失ってしまいます。

そして実際、「毒親」という言葉によって、自らの世界を見事に創造してしまいます。「毒親に虐げられる私の人生という世界」をね。まるで呪詛のよう・・・

こうなると、猛烈被害者スタンスに陥り、『カワイソウな私』の底なし沼へ、ズブズブズブ・・・。

そこから一生抜け出さずに終わる人もたくさんいます。親が死んでも、終わらない。死ぬまで「親のせいで」「親が悪い」をやっちゃうんです。そうなると来世に課題持ち越しですね。再履修決定のハンコがボーンと押されます。

なので、とにかく大事なことは、毒親という言葉の枠の外に自分を連れ出してあげること。これこそが、毒親の縛りから本当の意味で自分を解放してあげるために、とっても大切なポイントなんです。

次回に続きます。

毒親という言葉がもたらす幻想と呪縛とは?私たちの人生に与える真の影響について解説!

―― 毒親

この言葉が広く一般に使われるようになって久しいですよね~・・・。私がこの言葉に出会ったのは、今から20年位前かなぁ。「毒になる親」という本がきっかけだったと記憶してます。

この言葉を知ったときの納得感は、それはそれは強烈なものがありました。

なにせ私自身、ゴリゴリの≪機能不全≫と呼ばれる家庭に育った、≪アダルトチルドレン≫カテゴリに華麗に当てはまっていたので(笑)

父の機嫌が悪い時は、なんちゃことないことで、よく目から火花が飛び散るほど吹っ飛ばされたなー・・・。その一方で、母とはピタッと癒着、コッテコテの共依存関係でした。

でも20年経った今は、「毒親」という言葉・概念に対して、かなり違う観方をするようになりました。というか、この言葉への興味をほぼほぼ失いつつあります

自分の内的変化が結構興味深いなぁと感じたので、その話をシェアしたいと思います。
よかったら読んでいってください。

毒親」という言葉にマインドがジャストフィットしていた時期

昔は確かにねぇ、こう思ってたんですよ。

「どうして私は、こんな毒親のもとに生まれちゃったんだろう」
「もし普通の親だったら、私の人生は違ったものになってた」
「私が不幸なのは親のせいなんだ」

・・・どうです?
この悲劇の主人公的思考(笑)
これ、「毒親」という魅惑的な言葉のマジックに見事にハマっちゃってますわ。

あ、そうそう。
毒親本に書いてあった通り、ちゃんと≪対決≫も試みましたよ。

それだけじゃなくて、更に、再起不能になるほど強い言葉で父を責め立てて彼の心をへし折り、家出に追い込んでしまった経験もあります。父がうなだれながら、荷物をカバンに詰めて家を出ていったあの日の光景は、今でも忘れられません(笑)

実は強かったんですねぇ私。
あ、言葉が、ですよ。

まぁ今考えると・・・そんな自分さえも愛おしくてたまらないんですが。

現在の親に対する想い

でも今は、生きづらさや人生の苦しみを、親のせいとは全く思わないです。

そして≪親≫という存在自体についても、彼らは親である前に、自分と同じ、ただの≪存在≫なんだという認識が強いです。

なので特別嫌うこともなく、普通。

あ、今でも彼ら、十分クセは強いですよ。以前より浄化が進んだような印象はありますが、それでもまだ大きいのを抱え込んでいるなぁーと感じています。彼らには彼らの、向き合うべき魂の課題がありますからね。

それでも現在は、私自身が彼らの課題に巻き込まれずに、入れ込みすぎず、物理的、心理的距離を上手に取っている感じに仕上がっているんだと思います。

なので父に関しては、私の意識にネガティブなイメージで上がってくることはありません。母に関してはね、正直まだ私の中に未浄化なものが残っている感覚があるんですよ。でもそれは私自身が内面に意識を向けて取り組むべき私の課題であって、もはや彼女は関係ないという認識です。

今は両親の幸せを願っているし、離れて暮らしているので、「元気にしてるかなぁ」って、ふと思い出すこともよくあります。でも、それだけのことです。

そうそう。
父について、これだけは確信していますが、今となっては、彼が私に手を上げることはもちろん、声を荒げることさえ無いでしょう。不可能でしょう。それは私がすでに彼という存在から卒業している感覚があるから。

――卒業。
うむ。この言葉がしっくりきます。

むしろ今は、自分が在り、大きな学びを与えてくれたことに対する感謝と敬意の気持ちが強いかな。やっぱりどう考えても、彼らの存在が、今の私に至るまで導いてくれたんだと確信せざるを得ない・・・そんな感じです。

毒親じゃない親」は存在するのか問題

ここは二元性の世界、つまり、左⇔右、善⇔悪、男⇔女など、正反対の二極で構成された世界です。なので、「毒親」という言葉・概念がこの世に存在する以上、「毒親じゃない親」という対極の存在も暗黙の了解として同時に示唆されているように思われます。

つまり、毒親じゃない親」を前提として、それとの比較で「毒親」が語られるわけです。

・・・が、ここで疑問が生じるんですよ。

そもそも、「毒親じゃない親」なんて存在するの?

「毒」が無い親。
それはつまり、理想的かつ完全無欠な親です。

一切悪い影響を与えない親。
常に最も最善の対応ができる親。
わが子のために一切の欲を捨てて、どんなときも真実の愛だけを注ぐ親。

います?
私はいないと思う。(即断言)

いや、いたらいいなーとは思いますよ。
そんな聖人、もしいるなら是非お会いしてみたい。

でもいないから。(即断言2回目)

むしろ、そんなありもしない幻想を追い求めることが、無用な苦しみを生み出してしまう原因にさえなってるんじゃない?・・・と、今はそう考えています。

もちろんそう考える私なりの根拠はちゃんとあって、それはインド哲学を学ぶ中で、人間存在の構造や、肉体をまとって生まれる理由なんかをとっても理論的かつ明確に知ることができたので、それが迷いを吹っ切ってくれたという点は大きいです。

肉体を持って生まれている以上、み~んなどこか未浄化なところを抱えている存在だし、不完全です。完全なら生まれてこない。

生まれてきている
=不完全
=認知、記憶、価値観などに偏り(未浄化の部分、つまり毒)がある

親だから・・・とか、大人だから・・・とか、そういうの、全然関係ない。

 言うなれば、人類のほとんどは生まれながらの毒持ちです。

この世界で「毒が無い人間」とは、生きながら解脱の境地に至った人(=ジーヴァンムクタ)のみです。お釈迦さんだって、最初は毒持ちでしたよ。毒があるからこそ、解脱に至るまでは迷い苦しみ絶望し、真実を求めました。

毒親」という言葉が私たちにもたらすもの

私自身もそうでしたけど、「毒親」という言葉は、理由がわからないけどとにかく生きづらい・・・そんな苦しみを抱えている人にとっては、天地がひっくり返るほどの意識の転換をもたらします。

その言葉の意味を知った瞬間から、親という存在、自分という存在、そして人生の諸問題について、価値観のポールシフトが起こるわけです。

これまで白だと信じていたものが、黒になり。
善だと思っていたものが、悪になり。
そして愛だと思っていたものが、愛じゃない何かになる。

それが親を否定する反発力になり、その結果、親を踏み台・反面教師として自分をぐんと肯定する力にもなる。そして自分の人生を生きようとする強い意志を持つことに繋がります。

ある意味吹っ切れますよね。
嫌ってはいけないと思い込んでいた親を、嫌っていいんだって思えるんですから。「あなたは何も悪くない、悪いのは親だ」って言われたら、そりゃあいつでも答えを知りがっている枯渇マインドはジャストフィットしますよ。

あまりに大きな意識の転換は、ストレスを一時的に通り越して快感をもたらします。≪納得感≫という極上の甘露がもたらされます。それは脳(=マインド)に悦びを感じさせます。

意識はどこへ飛んでった?

じゃあ一体意識はどこに転換されたのか?

・・・対極に飛んでいきました。

≪肯定≫から≪否定≫へ
≪好き≫から≪嫌い≫へ
≪受け取る≫から≪拒否≫へ
≪愛情≫から≪憎しみ≫へ

二元的世界の縛りの中で、単に、正反対の観方へと転換しただけです。要は、左側の崖っぷちで耐えていた人が、今度は右側の崖っぷちに移動したみたいな感じ。

観方は極端から極端に変わったけど、結局認知は歪んでる状態

だから「愛したい」と「憎い」、「許したい」と「許せない」、「親を責める」と「自分を責める」・・・など、正反対の二極のハザマで心は延々と揺れ動き続けます。

二元性に囚われるって、ほんと苦しいんですよ。愛情と憎悪、正反対の二極どちらも、苦しみであることには変わりないんです。

ここで一旦自分を客観視してみよう

さあて。
今絶賛体験中の人・・・

どうですか?
苦しくないですか?
親、否定して。

毒親」という言葉を認識する前とは、また別の苦しみが無いですか?

私はめちゃめちゃありましたよ。
むしろ以前より苦しみが増した感あったかも。

心の深~いところでは親から愛されたいのに、同時に頭で親を全否定するんだから、そりゃあ凄まじい葛藤で、心はぐちゃぐちゃでした。ほんと、自分が一体何なのかさえわからなくなってましたね。

あ!
因みに、これが「全然苦しくない」って人は、まだ「毒親」という言葉の一時的な甘露にズブズブと浸っている状態です。

親を対極に置いて、対極の親を反面教師に設定して、「ああはなるまい・・・」と念じながら、自分はどうありたいか、自己のアイデンティティーを確立しようと頑張っている・・・そんな段階。

自己存在を模索する体験は、成長するために絶対必要。全然アリです。大きな流れの中の、必要な段階なんですよね。自分を親から一旦完全に切り離して、人生をずんずん進んで創っていく段階なので、是非そのまま突き進んでいっちゃってください。

でも、この段階を通り過ぎると、再び課題は現れます。きっかけは子育てだったり、夫、兄弟姉妹、同僚や友人、舅姑、ご近所づきあいなど、あらゆる人間関係での悩みだったりします。

そう・・・でもその頃には、自分の内的苦しみをきちんと感じることができる意識状態になっているはず。準備は整った!段階です。

この段階にまで来た人は、今度は避けずに、その苦しみを観ていくことが、のちのちとっても大事になってきます

次回に続きま~す。