ひつじライオンの夜明け

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自分と本気で向き合い癒したい。本質を見極める目を養いたい。そんなあなたへ新たな視点をご提案。

生きづらさの原因は自己存在の否定!毒親という言葉は私たちにどんな世界を創造させるのか?

こちらの記事は、前回からの続きです。
まだ読んでいない方は↓こちらからどうぞ!

今回は、親を否定することがなぜ自己否定につながるのかについて、自己存在の基盤という観点から考えてみます。そして毒親という言葉がもたらす影響をあたらめて整理し、新しい視点で眺めてみようと思います。

よかったら読んでみてください。

親を否定することは自分を否定することと同じ

親という存在は、まぎれもなく自己存在の基盤・土台です。彼らから生まれた私たちは、肉体的・精神的特質を与えられ、固有の価値観を受け継いだだけでなく、膨大な時間とお金とエネルギーを注がれて育てられたことはまぎれもない事実。いくら嫌だと否定しても、仕方ないところ。”宿命”とさえいえる部分です。

そんな自己存在の基盤である親を否定しているということは・・・

親を否定
=自己存在の土台を否定している
=自分自身を否定している

・・・ってことになります。当然に。

これは余談ですが、確かに嫌って当然みたいな所業の親も、実際いてますけどね。それこそニュース番組で扱われるようなレベルのね。でも今回の話に限っては、親の善悪を問うているのではなく、親を否定していると、心にどういう影響があるかという話をしています

話を戻しましょ。
そういうわけで、親を否定するマインドを持っていると、同時に必ず自己存在も否定しながら生きることになるので、それはもう、大変生きづらいのです。

この世界は心の在りようをそっくりそのまま投影したものですから、世界全体に≪親否定(=自己否定)≫というフィルターをかけて観ることになってしまうからです。

まぁねぇ、フツーに考えても不合理なわけですよ。
自分の世界なのに、自分が在ることを認めないという設定・・・無茶苦茶無理ゲーじゃないですか?(笑)

こうなると、親はもちろん、親とは無関係のあらゆる対人関係においても、なぜかいっつも自己否定したくなるような出来事が起きたり、周りから存在を否定されてると感じてしまうような体験を繰り返すことになります。

世界は無色なのに、そのフィルターの働きによって、世界がぜーんぶその色に染まってしまい、本当の世界をありのままに観ることができなくなります。

ここがなかなかに厄介なんですよね~・・・
でも逆にいえば、そのフィルターを外せば(=認知を健やかにすれば)世界観はかなり変わるということでもありますね。なのでここが面白いところでもあります。

毒親」という言葉と概念が覆い隠す本質

前回からここまでつらつら書いてきましたが、結局何が言いたいかというと。

親を≪毒≫と観ているうちは、苦しみの二元性世界の枠から出ること、絶対にできないんですよ。

愛も憎も、二極の相対的なものはシーソーみたいに常に揺れ動くし、変化するでしょう?苦しみを伴う正反対の両極を味わっているだけに過ぎない以上、苦しみから抜け出せるわけありません。

ものごとの本質は、対立する二極を超えたところにしか存在しないので。

親を毒親認定して一時どんなにスッキリしたとしても、結局今度は「毒親」という言葉の呪縛に縛られるだけです。

たとえ自分の親が、毒親本に書いてある毒親のテンプレートにバッチリ当てはまり、自分がアダルトチルドレンのテンプレートにバッチリ当てはまったとしても、だからといって、それが親の全てじゃないし、あなたの全てじゃない。

そうじゃないですか?
アダルトチルドレンの該当項目以外にも、あなたらしい独自の部分、あるはずですよ。

私たち人間存在は、他人が作った物差しなんぞでは、とうてい測れるものではないです。人間一人ひとり、経験も記憶も性格も能力も特質も課題も、全く違うというのに・・・。

言葉の縛りによって、本当に観たい全体像が一気に見えづらくなる。あまりにも強い≪納得感≫があるゆえに、意識をその言葉の中に埋没させ、自分を概念という檻に閉じ込めてしまう。

所詮「毒親」というものは、誰かが制限ある人間の脳の機能だけで作り出した、ただの三次元的世界限定の言葉と、言葉に紐づく概念でしかありません。

宇宙の普遍的な理に沿っているものでもない。

ただの人間が、
思考をこねこねして、
その産物として創り出した、
ただの言葉、
ですっ!ですですですです・・・(エコー)

・・・とはいえ、言葉の力はめちゃめちゃ強力です。なにしろインド哲学の世界観の中では、言葉は神様から人間に与えられたギフトで、世界を創る力を有するといわれます。

言葉があるからこそ人間は深く自分について熟考し(=瞑想)、いずれは真の自分を知ることができる(=解脱)。要は、解脱のお供として授けられた便利機能。

だからこそ大切に扱わなきゃいけないものだし、取り扱いには注意しないといけないものです。

(あ、そういえば日本でも「言霊」ってありますよね~)

そんな強力な言葉のマジックに一旦囚われてしまうと、毒親テンプレートの枠の外にある、私たちが本当に観たい本質・・・つまり、親との関係を通して魂が真に気づきを得たいと願っていることを観る視点を失ってしまいます。

そして実際、「毒親」という言葉によって、自らの世界を見事に創造してしまいます。「毒親に虐げられる私の人生という世界」をね。まるで呪詛のよう・・・

こうなると、猛烈被害者スタンスに陥り、『カワイソウな私』の底なし沼へ、ズブズブズブ・・・。

そこから一生抜け出さずに終わる人もたくさんいます。親が死んでも、終わらない。死ぬまで「親のせいで」「親が悪い」をやっちゃうんです。そうなると来世に課題持ち越しですね。再履修決定のハンコがボーンと押されます。

なので、とにかく大事なことは、毒親という言葉の枠の外に自分を連れ出してあげること。これこそが、毒親の縛りから本当の意味で自分を解放してあげるために、とっても大切なポイントなんです。

次回に続きます。